続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

北風吹けば・・・。

2012-11-06 07:24:49 | 日常
 出しそびれていた炬燵をついに出した。炬燵を出すと、狭い我が家どうにも掃除がし難い。

 電気炬燵は暖房費の中でも比較的安価ではないかと観念しての決断(おおげさ?)。

 お金がかからないためには寒さに震えて耐えるのが一番だけど、そのまま思考力も萎えてしまっては元も子もない。ケチなわたし、(うーん、そんなに長くもない余生・・・そこまで考えなくても)などと錯誤の結果、炬燵をセット。

「ああ、暖かいな」と喜ぶ夫。
「やっぱり、炬燵はいいね」とわたし。
 エアコンなんて確認のため点けただけ。(あ、大丈夫。動くわ)

 0円生活したいなぁ、と思ってもそうはいかない。冷房は一度も点けなかったけど、「60才過ぎたら、冷房は使用しないほうが危険なのよ」と友人に諭されもした・・・。


 北風吹けば・・・炬燵に蜜柑・・・冬の定番。
 健康が一番だから、何とかすれすれの生活を保持している。電気代よりも蜜柑代の方が上回るかもしれない蜜柑好き。二キロ買ってきてもその日のうちに消えてしまうことも度々、その点では嬉しい季節の到来である。いいことだけを考えて、身体を温めよう。気は総てを解決する(と、思う)

『ひのきとひなげし』43。

2012-11-06 06:59:39 | 宮沢賢治
スターといふのはな、本当は天上のお星さまのことなんだ。そらあすこへもうお出ましになってゐる。もすこしたてばおでましだ。さうさうオールスターキャストといふだろう。オールスターキャストといふのがつまりそれだ。つまり双子座様は双子座様のところにレオーノ様はレオーノ様のところに、ちゃんと定まった場所でめいめいのきまった光りやうをなさるのがオールスターキャスト、な、ところがありがたいもんでスターになりたいなりたいと云ってゐるあまへたちがそのままそっくりスターでな、おまけにオールスターキャストだといふことになってある。それはかうだ。聴けよ。
 あめなる花をほしと云ひ
 この世の星を花といふ。」

☆翻(ひっくりかえす)闘い、転(ひっくりかえる)意(考え)は、精(こころ)を挫く。
 妖(災い、人を惑わせる)争いを刺(突き刺す)。
 精(心)を挫き、拗/捻じ曲げられた妖(災い)を、膺(討伐する)。
 諦(真理)を罵る諸の考えを運(めぐらすこと)を、懲/こらしめる禍(さいなん)の運(めぐりあわせ)。
 西(仏のいる方向、死界)は凄じく、苛/きびしい。

『城』1086。

2012-11-06 06:46:37 | カフカ覚書
「だれがあなたをお払い箱にするなどと言いましたか、測量師さん。あなたの招聘問題が曖昧なままになっているということは、とりもなおさずあなたにこのうえなく丁重な待遇を保証しているのですよ。

 このうえなく丁重/hoflichste→Hof/ハロー(太陽や月の暈)

☆あなたを所払いするでしょうか、測量師(土地のないことに気付いた人)さん。村長(死への入門)は言った。あなたの先決(招聘)問題が不明瞭なままになっているということは、最高のハロー(太陽や月の暈)を保証しているのですよ。
 
*死の門をハローと考えている。

アントニー・ゴームリー。

2012-11-06 06:31:54 | 美術ノート
神奈川県立近代美術館・葉山でのアントニー・ゴームリーの作品。

 人体を模った二体の設置(一方は美術館屋上は三ガ丘の山に向き=地上、他方は海を向くという志向)。
 一方は日の昇る東、他方は日の沈む西・・・要するに二体は一つの意味をなしており、地球の中のわたしであり、わたしの中の地球という存在であって、その向かう方向は無限をも内包している。(ただ地上の人間には視界の限度がある)


 地球には重力があり、そのためにわたし達人間の存在も確かなものであるのだけれど、宇宙は猛スピードで動いている。その中のわたし達なのである。人は人であることによってその事実を突き止め、今日に至っているが、相変わらず、人は人の時間を生きるしかない。
 わたしとは?の問いは、古くて新しい人間存在の根源を問う課題でもある。
 わたしとは永遠の謎であり、不可解こそが真実であれば、わたくしを客観的に突き放して任意の場所に置き放つしかない。遠く眺めたわたくし、つまりわたくし(任意の人間)を外部に切り離し外から観察してみるという思索。

 東西南北、地球科学における質量質感、天文学におけるビックバンからの地球など、情報は限りなくある。しかしてその根源は、やはり『わたくし』という観点抜きには語ることはできない。わたくしはわたくしである必要はない。あくまで任意のわたくし(人間存在)である。しかし他の人であってもならない、わたくしが機軸だからである。

 時間とともに酸化していく鉄、それに遅れて(時間差をもって)風化していくであろうガラスファイバー。二つの素材で作成された人体模型は人であって人でない、あくまで想念としての人、人として認識せざるを得ない人である。
 人の条件は誰もが知っている、知っていることを逆手に人を設置している。(わたしでないがわたしと同じ人類である)
 人を内部からも外部からも解放すれば、自由である。人は重力によって地上に立っているが空を飛ぶことも可能になる。人の条件を外せば恥辱とも無縁になり、自然に一体化できるに違いない。

 人は規律に従属することで生きる術をえているけれど、人には肉体と精神が宿っている。いずれ元素の還元されていく有機物質である肉体も、自由で束縛のない精神によって生きていることも、真理である。


 この複合的な条件は地上に人間が誕生したときから連綿と続いている。無はないが、時空を超える精神は人間が自負するところの魅力ある世界観ではないかと思う。
(しかし人は通常、奇想を常識の外に追いやっている。両手両足を広げ直立した壁に這い蹲るなどということは不可能と考え、物理的に不可能なことも精神界では可能だということをすっかり忘れている)

 
 葉山に設置された二つの人体模型は、風や波音を聞き、日の出・日没(夜の星)を眺め、時間の中に作家の想念とともに存在している。地域の中の一員として参加し、その自然への畏敬を胸に億年の思いを沈思のうちに温めている。そんな郷愁と共感をもたらせてくれる作品である。