続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

冬コート。

2013-01-19 06:49:37 | 日常
 外出は日中に限られているから、真冬でも比較的薄着で出かけてしまうけれど、昨今の酷寒に負けコートを着用している。

 今日も昨日誕生した孫の顔を見に静岡は掛川まで行く。用意のため吊るしてあるコートを見てつくづくため息。

《三十年ものである》

 
 三十年前、コートを買いにデパートへ向かった、財布には五万円ほど入れてある。(息子の父母会にもおかしなものは着れない)世間並みのものを買おうと、意気込んで行ったはず・・・。
 ところが習慣とは恐ろしい。五千円の特売品を見つけると思わずしっかり握りしめ店員さんを呼んだ。
「こ、これください!」
 店員さんに渡し一安心・・・ふと見渡すと同じコートは何着も。(あんなに大きな声で夢中になることもなかったのに)意気消沈、すっかり恥じ入ってしまった。


 で、結局、いまだにそれを着ている。

 わたしの人生も似たり寄ったり、何か意気込んで熱くなる・・・でも結局何事もなく霧消していく日々。泡のような儚い日常にバーゲンで手に入れたコートはお似合いなのかもしれない。

『洞熊学校を卒業した三人』68。

2013-01-19 06:34:13 | 宮沢賢治
 そして手足をひろげて青じろい腹を空に向けて死んだやうになってしまひました。銀色のなめくぢは、すぐペロリとやらうと、そっちへ進みましたがどうしたのか足がうごきません。見るともう足が半分とけてゐます。

☆趣(志すところ)は、即ち、照(あまねく光があたる=平等)の福(さいわい)である。
 空しい講(はなし)の死を吟じる自記で真(真実)を測(おしはかる)。
 現れる惻(悲しみ)は、半(二つに分けた一方)の文にある。

『城』1158。

2013-01-19 06:05:53 | カフカ覚書
わたしがなんでも誤解する人間だとすれば、あるいは自分の質問も誤解しているのかもしれませんし、自分でそうおもっているほどぶしつけな質問ではないのかもしれません。わたしがお訊きしたかったのは、あなたがどうしてご主人と知り合われたのかということ、それから、あなたがたがどのようにしてこの旅館を手に入れられたかということだけなんですよ」

 旅館/Wirtshaus→Wort haus/言葉、一族。
 ぶしつけな/grob→global/世界全体の、大づかみな。
 gelernt→gerade/真正直。

☆わたしが死を誤解しているとすれば、あるいは自分が降参することも誤解かもしれません。まったくそんな世界はないかもしれません。知りたいことは、人間として真正直さと、この一族の言葉の所有がどうして起こったかということだけです。