続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

西雅秋先生の授業②

2013-01-25 06:46:12 | 美術ノート
 形とは何か・・・視覚、触覚において確認しうる状態。線、面、立体として感受しうる姿。

 わたしたちは形の中で暮らしている、生きていると言い換えてもいいかもしれない。その形は生きているわたしと共に必然的に劣化していくものである。時間による転移は不可逆であり、そのものが再生することはない。


 西雅秋先生の講座は「形の内と外ー型をとる」というもので、その通りのプロセスを踏み、対象の型をとって対象の形の内と外の認識を新たにするという授業だった。

 写し取った石膏の塊(作品)。(わたしの場合、ゴームリー氏の身体を写し取った模型であれば、模型の更なる模型である)
《このモノは何か》

 明かに対象を髣髴とさせる要素を含んだ物体であり、記憶の糸がそれを認識する。細部まで写し取ることが可能だとした時に感じる一致した概念と、矛盾する空漠のズレもまた真実である。

 自然における人為の介入・・・破壊ではないが再生でもなく何かを促すものでもない。単に記憶された形の再認識である模した形への感慨。
 形の中で時間は止まっているが、それを見る側の人間の時間は進行している。形は無機質であり精神的な要素は皆無である。にもかかわらず、見る側はそのモノに感情移入し、型を取った複製を記憶情報によって甦らせてしまう。

 同じである驚きは脳を刺激し、記憶、概念を再認識させる。

 世界はめざましく変化している、自然もまた誕生と死を繰り返し連鎖していく。その中で、一瞬の風景(対象)を切り取る作業(今回の授業)は、わたしたちの足をふと留めさせてくれたような気がする。
 時間に再生はないけれど、形には複製という(偽)再生があり、それは見る者の脳を認識という刺激で精神を高揚させてくれるものかもしれない。

『城』1164。

2013-01-25 06:11:56 | カフカ覚書
そういうわたしをハンスが見そめて、とこおりわたしのそばへ来ては、腰をおろしました。わたしは彼を相手に泣き言ひとつこぼしたわけではありませんが、彼のほうでは、わたしがなぜ悲しんでいるのか知っていました。そして、ひとの好い青年でしたから、いっしょに泣いてくれることもありました。

 そういう/Dort・・・来世で。
 ハンス/Hans→Hause/一族。
 ときおり/manchmal→manch mal/幾多の、痕(傷痕) 
 青年/Junge→Jude/ユダヤ人。

☆来世で一族に会ったのです。かなりの数の痕(傷痕)がありました。
 彼はわたしがなぜ悩んでいるのか知っていました。先祖の善いユダヤ人でしたからいっしょに守ろうとしてくれました。