続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『ズビネック・セカール展』

2014-01-26 06:41:55 | 美術ノート
 作品群は、静かなる衝撃である。

 ギャラリーTomの館長さんである村山治江さんが、作家(セカール)に「芸術とは何ですか」と問いただした所「わたくしの意思です」という風なことを伝えたらしい。そして、「作品を解釈してほしくない」とも・・・。

 自身の意志、核心・・・。たとえば自分の生理、エロスについて他人から解釈などされたくないと思うのは当然である。傷つきやすい弱点を触られるのも遠慮願いたい。
 自身の暗部の深さは語れない。しかしこの作家、ズビネック・セカールは敢えて曝して告発している。血を流した傷跡は、慟哭なくして辿ることは難しい。
 作品群は鑑賞者を寄せ付けずして、呼んでいる。痛みのある会場の空気感、緊迫はわたしを刺激して止まなかった。


『無題』木
 開かれているように見えるが、閉ざされた私的空間(世界)の妙。
 世界は開かれているという観念的な前提、《しかし、どうだろう》と作家は自問する。確かに閉ざされているわけではない。明らかに向こうの景色(世界)の存在や動向は見て取れるから、こちらから出向くことも可能だし、あちらでもこちらを見ている風でもある。風は通り抜けていく、つまり同じ時空の存在という条件下なのである。身体(自身)を曲げる、主張を少し歪めれば幾重の囲いは容易に抜け出ることができるかもしれない、前後左右天上の柵は通り抜け自由なのである。
 細い木で括られた囲いは守るべき壁にしては貧弱で、災害や人為的攻撃に耐えるものでもない。
 見られているが見ることもできる、しかし、わたくしはわたくしである尊厳が見えない囲いによって、存分に動けるだけの自由しか与えられてないのではないかと考え込んでしまっている。


 門は、こちらとあちらを隔てる境界である。同じように見える空気でも、つながっているわけではない。ここに偶々門というものが置かれているのではなく、それは人間の知覚の働きによる一つの主張なのである。
 聖域だろうか、堕落だろうか・・・世界は開かれている。この厳粛な門(通過点)の持つ意味は人智の極みである。


 存在論的な痛みや生きて在ることの身を切り血を流した声なき声がわたしの中で響き渡り、会場を去ろうとするわたしに纏わりついて離れない。セガールの背後にはカフカもいたかもしれない。セカールは、つぶやくような小さな声で、世界に響き渡るような叫びをあげていたのかもしれない。

 水沢館長さん、TOMの村山館長さん、ありがとうございました。

『ポラーノの広場』221。

2014-01-26 06:31:23 | 宮沢賢治
「あゝ、あのデステゥパーゴのことだなこれはおもしろいと、わたくしは心のなかでわらひました。すると所長はまだわたしの顔付きをだまってみてゐましたが
「心当たりがあるか。」と云ひました。


☆申べていることは、諸(もろもろ)重なっている。
 信仰は普く真(嘘偽りがない、誠)であり、等(平等)について、運/めぐらせている。

『城』1516。

2014-01-26 06:06:33 | カフカ覚書
これ以上はっきりしたことってあるでしょうか。さらに、わたしから言うと、この調書は、この人がクラムとのあいだにもつことのできる唯一の、ほんとうの職務上のつながりなんです。これも、しごくはっきりした、疑う余地のない事実ですわ。

 唯一の/einzig→Ahn zig/先祖、多くの。
 職務上の/amtlich→entlich/決定的な。

☆これ以上はっきりしたことってあるでしょうか。この記録はクラム(氏族)とのあいだにもつことのできる多くの先祖との、しごく決定的なつながりなんです。十分暗示された疑う余地のない事実なんです。