無題〔鳥〕(テンペラ、油彩、紙)という作品がある。
いかにも可愛げな鳥の姿ではある。
しかし、これは明らかに空想上の鳥であって、こんなに尻尾の長い鳥はいない。たとえ酷似した鳥がいたとしても、それは飛べない鳥である。尾長鳥は飛べるかもしれないが、空高く舞い上がり飛んでいくだろうか。
鳥は一般に軽い、ゆえに飛べるし電線に止まることも可能である。そういう類を鳥と総称している。
人から見た鳥のイメージは、どこへでも飛んでいける=自由であるという観念めいた憧憬の念が強い。
セカールは胴体の太さに等しい尾の膨らみを描き、か細い足ではとうてい支えきれないような姿を、あたかもこんな鳥が存在しているように描いたのである。鳥の足はたいてい身体全体を支えるように位置している都合上、尾の付け根近くにある。にもかかわらず、この鳥の足はむしろ前方にある。
つまり、セカールは《鳥は飛べるもの》というイメージを利用して、《飛べない鳥=異端》を描いたのである。空高く舞い上がることの不可能な鳥を、静かにやさしい面持ちで描いたのである。この皮肉は画面の底深く隠蔽されている。
「わたしの作品を解釈してはならない」というセカールの言葉がわたしの中にうずく。血を吐くような悲しみを誰にも悟られたくない、それを暴くものは許せない・・・余韻が響いて止まらない。
いかにも可愛げな鳥の姿ではある。
しかし、これは明らかに空想上の鳥であって、こんなに尻尾の長い鳥はいない。たとえ酷似した鳥がいたとしても、それは飛べない鳥である。尾長鳥は飛べるかもしれないが、空高く舞い上がり飛んでいくだろうか。
鳥は一般に軽い、ゆえに飛べるし電線に止まることも可能である。そういう類を鳥と総称している。
人から見た鳥のイメージは、どこへでも飛んでいける=自由であるという観念めいた憧憬の念が強い。
セカールは胴体の太さに等しい尾の膨らみを描き、か細い足ではとうてい支えきれないような姿を、あたかもこんな鳥が存在しているように描いたのである。鳥の足はたいてい身体全体を支えるように位置している都合上、尾の付け根近くにある。にもかかわらず、この鳥の足はむしろ前方にある。
つまり、セカールは《鳥は飛べるもの》というイメージを利用して、《飛べない鳥=異端》を描いたのである。空高く舞い上がることの不可能な鳥を、静かにやさしい面持ちで描いたのである。この皮肉は画面の底深く隠蔽されている。
「わたしの作品を解釈してはならない」というセカールの言葉がわたしの中にうずく。血を吐くような悲しみを誰にも悟られたくない、それを暴くものは許せない・・・余韻が響いて止まらない。