続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

九月一日。

2014-09-01 06:47:54 | 日常
 わたし達の年代では、九月一日は二学期の始まりである。
 二学期は運動会、遠足などのイベントがある上、長い。この長い月日をどう耐えればいいのか・・・子供心に憂鬱な日の始まりとしか認識できなかった九月一日。
 学校へは日曜日と夏休みのために仕方なく通っているのに、その大好きな夏休みが終ってしまったという絶望感はしばらく拭えないままずるずると冬になっていく、どうしようもない浮遊感を抱いたやる気のない子供だった。

 だから今でも九月一日は苦く痛く胸に刺さる、いわば負の記念日なのである。

 大変なことを愉しむという心のゆとりがない欠食児童だったわたし。

 父方の伯母は、植木職人である夫の仕事がない時期には夫婦で行商をしたと言い、「荷物担いで駅を降りるとき、この街はどんな所だろうって考えると、もう嬉しくてワクワクしたよ」と話した。
 もう一人の叔母は、「製糸工場で女工をしていたころ百円からの俸給をもらって盆暮れに帰る時の、あのあぜ道を飛ぶように帰ったときの嬉しさは忘れられない」と話してくれた。
 どちらも、貧しく辛い仕事であるように思うのに、嬉しく楽しかったと述懐している。

 まったく、呑気に学校に通った思い出が未だに楽しい思い出にもならないわたしは最低かもしれない。


 二人の子供を保育園に預け、仕事が終れば二人の子を自転車に乗せて家路を急ぐことが日課の息子の嫁さん、「大変だね」と労えば、「いいえ、楽しいです!」という返事が返ってきた。

 わたし以外の人はみんなエネルギーが溢れているのかな?
 どう思い返しても、いつも気力に欠け、しょんぼり肩を落として歩いて来たわが人生。『楽しいです!』って言ってみたい!

 九月一日を明るい旅立ちの日に変えてみたい。「さぁ、やるぞ!」って。

『ポラーノの広場』436。

2014-09-01 06:39:04 | 宮沢賢治
「そしてどうして帰ってきた。」
「警察から探されたんだよ。けれどもそんなに叱られなかった。」
「きみの主人は何と云った。」
「もうどこへ行ってもいいから勝手にしろって。」
「そしてどうするの。」


☆記を継ぐ冊(書きつけ)を担う悉(すべて)は、「衆(ひとびと)は神になるという化(形、性質を変えて別のものになる)の薀(奥義)の考えであり、照(普く光があたる=平等)という趣(考え、志す所)である。

『城』1723。

2014-09-01 06:20:46 | カフカ覚書
最後に、ふたりの意見がまとまって、教師は、となりの教室に移るようにとの指示を生徒たちにあたえた。そこで彼の生徒たちと合併で授業をするというのである。生徒たちはこの変更に大喜びで、笑ったりわめいたりしながら、全員がたちまち部屋から出ていった。教師と女教師は、いちばんあとから出ていった。


☆最後に空虚と空虚の中身(現実)は和解し、空虚は来世に死にゆくよう指示を子孫にあたえた。そこでもう一方の子孫たちと共通に教えるというのである。子孫たちはこの変化に全員がたちまち飛び上がり、復讐のもとにテーマを叫びながら出ていった。空虚と空虚の中身(現実)は、四終(死、審判、天国および地獄)へと出ていった。