続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『小林孝亘展』/横須賀美術館

2014-12-01 06:54:28 | 美術ノート
 不思議に静かな絵である。
 沈思黙考(う~ん)と、瞬間息を止めざるを得ないような奇妙な衝撃がある。のっぺりしているのに、鑑賞者であるこちらへ入り込んでくるような侵入者の眼差しを感じ、思わず目を反らしたくなる。にもかかわらず、作品に描かれた眼差しと見つめあうことが不可能な眼差しなのである。(どこを見ているのか)焦点はずっと遠く、距離を測れない彼方へと茫洋と開かれている。

 構図は単純明快であり左右対称、対象物は真正面からその物のみを描いている。例えて言うなら『禅』における○×△の領域である。平凡中の平凡、むしろタブーでさえある凡庸を両手を持って掲げ上げている印象に、こちらは面食らってしまう。

『私たちを夢見る夢』というサブタイトル。
 私たちを夢見るって(だれが?)わたし達は(あるいは、私たちが)なら理解できる。私たちを夢見る第三者は誰?どこに?
 神秘的なタイトルである。

 宇宙、存在の神秘の深みに引きずりこまれるような恐れがある。作品の中に点在するあの光、あの光の正体は・・・。光(影)は自然の光を越えた神秘に幽かに揺れている。

 柔らかい色調に包まれた作品群、横臥した人物像はあえて重さ(存在感)を消し、抽象的な存在へと昇華させている。

 喜怒哀楽の表情は皆無、無風の静けさに鑑賞者は心安らぐというよりはむしろ戸惑ってしまうのである。作品の静謐、無垢な世界を感じることで、自身の雑音が聞えてくる。
 作品鑑賞における奇妙な体験に、こちらは困惑してしまう。まるで逆なのである、見ているのに見られている。見られていると言うよりは自分自身に堆積した煩悩の痛みに、漠然とながら気づかされてしまう作品群である。

 こんなに平和で、ゆるいほどの穏便、中間色でまとめられた優しい印象の作品群に、自分自身の痛みを感じざるを得ない結末を突きつけた小林孝亘の作品は、確かに心鎮まる絵ではある。(この循環!)

『畑のへり』25。

2014-12-01 06:36:14 | 宮沢賢治
「どれ貸してごらん、ああ、とってるとってる。みんながりがりとってるねえ。たうもろこしは恐がってみんな葉をざあざあうごかしてゐるよ。娘さんたちは髪の毛をふって泣いてゐる。ぼくならちゃんと十六本の手が見えるねえ。」


☆対(向かい合う)の教えの要は、常に神である。
 亡(死)を究める自由な録(文字に書き記す)であり、奔(思うまま)の趣考え)を現わしている。

『城』1811。

2014-12-01 06:20:54 | カフカ覚書
彼は、なんとも奇異なことだが、ずいぶんあとになってからやっと、以前Kがラーゼマンの家に立ち寄ったときからKを知っているのだ。と言いだした。それを聞いて、Kはうれしくなった。


☆奇異なことだが、のちに禁錮を承認してからやっと以前から先祖の汚点であるラーゼマン(熱狂の人)の家に立ち寄った時からすでにKを知っていると、言いだした。それを聞いてKは怖ろしいと思った。