金山康喜の作品の色使い、平面(二次元)の中の構成の妙・・・驚愕たるものがある。
あの時代のパリ/フランスの香りかもしれないが、今のわたしが見ても深い郷愁がある。重くて軽い、そして静かなのに酔い心地にさせる心的リズムがある。心地よいのに漂泊の危うさが潜んでいる。
魅了させられる繊細さ・・・いつまで見ていても離さない吸引力はむしろ暴力的でさえある。
透明な青、深く淀んだ青、軽く舞い上がるような浮遊した青、暗く陰鬱な青、この落差と色面の量のバランス。
青と黄・・・男と女の奇妙な誘惑の匂い。どちらが誘っているとも、どちらが控えめに待っているのも定かでない。けれど、確かに作品の中には甘い危険な駆け引きがある。華美ではないが堕ちてもいない、きわめて危険で洒落た会話が青と黄の対比にある。
描かれたモチーフは存在感を消されている。見えているが、存在しないのである。遠近法にも平然としているが微妙、否、むき出しの反抗が覗く。こう在るべきでない形なのである。
好んで描いたものにコーヒーミル、カップ、ビン、鍋(パン)などがあるが、それらはそのものの形をしているが、そのもののイメージを借用したに過ぎない。金山康喜の世界観に必須のアイテムとして描いた根拠は、日常性の中の不変と深遠なる魂の漂泊を、作品の中に留めたかったからではないかと思われる。
自身が秘密に口ずさんだメロディの形は鑑賞者を震撼とさせる。
「分かるか?」と、言っているようでもあり、「分かるわけないだろう」と、目を伏せているようでもある。
ぶら下がっている裸電球は、どこかもの哀しい。一つのみならず幾つも下がっている光景は、あたかも霊魂のようであり、軽さと現実の重さを図りかねて揺れている。(『コーヒーポットある静物』他より)
たとえばフライパンの黒は物言わぬ沈思として画面の奥に鎮座しており、レモンは華やかに主張している。儚げなビンの口(上方)はカットされ、牛乳ビンの下部もカットされているが二つは一本の線として画面を押し広げると同時に不安な要因を引っ張り込んでいる。マグカップの淵の赤が作品を見る視点を止めている。循環の眼差しに小休止の呼吸、というリズム。
この流れはひどく緩やかで静止しているようにさえ見える。極めて平面的に描いたな空間である。しかし、心を惑わせるリズムが低く泣くように、あるいは微笑むように、錯綜した心理を垣間見せている。(『レモンとフライパンのある静物』より)
空き缶、明らかに空である缶・・・空虚、虚しさを直接的に描くのは気恥ずかしいが、それとなく日常に混入している心の隙間。人の座っていない(不在)椅子。
『食前の祈り』は中心に一本の線条(電球・ビン、牛乳瓶)不在の椅子二脚+奥のテーブルで瞑想(祈り)をする人たち(集中というより拡散の方向性を有した人たち)、
深い奥行きをしめしている黒い椅子の羅列は音符のようでもある。
暖色とも寒色ともつかない混濁の中間色(たとえばグレー)は、絵を描くことが喜びであるのか、哀しみであるのかの迷走、あるいは瞑想しているような曖昧な趣を見せているが、全体から見るとモチーフをしっかり固定させるために必須の辿り着いた彩色であることが肯ける。油で溶いた薄い彩色は透明でありながら深い秘密を持った光彩を放っている。
『金山康喜の作品』・・・全体(彩色・形態・構図)に於いて、心理的な根拠を隠蔽した透明な強さを感じる。心理的リアリズムとでも呼ぶべき仕組みが隠されているような気がする。
神奈川県立近代美術館/葉山でのカフェトーク、橋秀文先生・渡辺希利子先生、ほかスタッフの方々、ありがとうございました。
あの時代のパリ/フランスの香りかもしれないが、今のわたしが見ても深い郷愁がある。重くて軽い、そして静かなのに酔い心地にさせる心的リズムがある。心地よいのに漂泊の危うさが潜んでいる。
魅了させられる繊細さ・・・いつまで見ていても離さない吸引力はむしろ暴力的でさえある。
透明な青、深く淀んだ青、軽く舞い上がるような浮遊した青、暗く陰鬱な青、この落差と色面の量のバランス。
青と黄・・・男と女の奇妙な誘惑の匂い。どちらが誘っているとも、どちらが控えめに待っているのも定かでない。けれど、確かに作品の中には甘い危険な駆け引きがある。華美ではないが堕ちてもいない、きわめて危険で洒落た会話が青と黄の対比にある。
描かれたモチーフは存在感を消されている。見えているが、存在しないのである。遠近法にも平然としているが微妙、否、むき出しの反抗が覗く。こう在るべきでない形なのである。
好んで描いたものにコーヒーミル、カップ、ビン、鍋(パン)などがあるが、それらはそのものの形をしているが、そのもののイメージを借用したに過ぎない。金山康喜の世界観に必須のアイテムとして描いた根拠は、日常性の中の不変と深遠なる魂の漂泊を、作品の中に留めたかったからではないかと思われる。
自身が秘密に口ずさんだメロディの形は鑑賞者を震撼とさせる。
「分かるか?」と、言っているようでもあり、「分かるわけないだろう」と、目を伏せているようでもある。
ぶら下がっている裸電球は、どこかもの哀しい。一つのみならず幾つも下がっている光景は、あたかも霊魂のようであり、軽さと現実の重さを図りかねて揺れている。(『コーヒーポットある静物』他より)
たとえばフライパンの黒は物言わぬ沈思として画面の奥に鎮座しており、レモンは華やかに主張している。儚げなビンの口(上方)はカットされ、牛乳ビンの下部もカットされているが二つは一本の線として画面を押し広げると同時に不安な要因を引っ張り込んでいる。マグカップの淵の赤が作品を見る視点を止めている。循環の眼差しに小休止の呼吸、というリズム。
この流れはひどく緩やかで静止しているようにさえ見える。極めて平面的に描いたな空間である。しかし、心を惑わせるリズムが低く泣くように、あるいは微笑むように、錯綜した心理を垣間見せている。(『レモンとフライパンのある静物』より)
空き缶、明らかに空である缶・・・空虚、虚しさを直接的に描くのは気恥ずかしいが、それとなく日常に混入している心の隙間。人の座っていない(不在)椅子。
『食前の祈り』は中心に一本の線条(電球・ビン、牛乳瓶)不在の椅子二脚+奥のテーブルで瞑想(祈り)をする人たち(集中というより拡散の方向性を有した人たち)、
深い奥行きをしめしている黒い椅子の羅列は音符のようでもある。
暖色とも寒色ともつかない混濁の中間色(たとえばグレー)は、絵を描くことが喜びであるのか、哀しみであるのかの迷走、あるいは瞑想しているような曖昧な趣を見せているが、全体から見るとモチーフをしっかり固定させるために必須の辿り着いた彩色であることが肯ける。油で溶いた薄い彩色は透明でありながら深い秘密を持った光彩を放っている。
『金山康喜の作品』・・・全体(彩色・形態・構図)に於いて、心理的な根拠を隠蔽した透明な強さを感じる。心理的リアリズムとでも呼ぶべき仕組みが隠されているような気がする。
神奈川県立近代美術館/葉山でのカフェトーク、橋秀文先生・渡辺希利子先生、ほかスタッフの方々、ありがとうございました。