続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

今日は昨日と同じではない。

2015-02-11 06:31:00 | 日常
 同じような日々の連鎖で月日が明け暮れて行く。多少の凸凹はあっても均せばほぼ平凡な様相を呈している日常。

 けれど、ある日、自分がひどく年老いたことに気づく。そうだ、生れてからすでに六十八年もの月日が経っているのだからと、苦笑する。
 
《いかに生きるべきか》

 漠然と生き、漠然と死んでいく・・・単なる現象に過ぎない。気張ることはないのだ、気楽に(なるようになる)の自然体で日々の暮らしに順応していく。ずるずる・・・こんな形容が似合いのわたし、光ある未来はあるだろうか。年老いたお婆さんが(光ある未来)を夢見ていること事態失笑ものかもしれない。

 背中も曲がり、足腰弱く何に掴まっていないと立っていられず、顔をあげれば皺だらけで、身体全体の肉は弛んで落ちている。
 記憶力はゼロに近く、視力は遠近共におぼつかない。したがって生産力はおろか、人の役に立つという意義ある仕事にも不適切。

《生きる意味》を見失っている。「年を重ねても精神だけは昔と変らない」などという言葉にも疑いが生じる。精神も傷だらけである。修復しつつ見ないようにしてきた過去の傷が疼くことさえあるのだ。


 どうしようもない暗雲の中に入り込んでいる。
 しかし、昇らぬ太陽はなく春の来ない冬も明けない朝もない。今日は昨日と違う。昨日までの患う気持ちを捨ててしまえる今日という日がある。

 昨日と今日が同じだと思うのは錯覚に過ぎない。老いた自分を観察すれば新しい発見がある。マイナスをプラスに変換させる機能は自分で作り出すのだ。昨日と違う今日は能動的に切り拓いていくものかもしれない。くよくよするエネルギーをわくわくする期待エネルギーに変えていく。
 無理にもそう思うことこそ、昨日と違う今日を作る根幹ではないか。

『冬のスケッチ』22。

2015-02-11 06:19:26 | 宮沢賢治

   め居たれ
        *
   けむりかゝれば はんのきの
   酸化銅の梢 さっとばかりに還元す


☆巨きなSun(太陽)の異(普通より優れている様)が導く照(遍く光があたる=平等)の歓(よろこび)は、源(物事の生ずるもと、初め)である。

『城』1876。

2015-02-11 06:05:09 | カフカ覚書
しかし、いったん誤解がとけたら、Kは、ブルーンスヴィックをあの教師にたいする後楯にすることができよう。そして、村長と教師がKを城当局に近づかせないで、無理にこんな小学校の小使いにしてしまったあのお役所的欺瞞行為ー全く、これは、欺瞞以外のなんであろうかー


☆Kはブルーンスヴィック(種族を屈服させるもの)は、先祖の空虚(幻影)にたいする支えである。そして会衆(信奉者)の責任を得ているのは、全くの公然たる欺瞞であるー違っているだろうか。