「パイプ」の絵と「Ceci n'est pas une pipe」(これはパイプではない)が画面上(二次元)に描かれている。しかし、二次元が問題なのではない。二次元の世界は、マグリットの主張の場であり世界なのだから。
わたしたちは、外国語(英語)の教本において、描かれた絵(ペン)と共に「This is a pen」(これはペンです)と習った。
言葉と描かれたもの(表象)とは、同一(言葉=そのものの説明である)であって、この基本概念は外すことのできない約束である。
☆では何故、マグリットが明らかに「パイプ」に見えるものを描き、「これはパイプではない」という言葉を記したか。
もし言葉を解さない者(たとえば幼児、言葉を解さない他国人)が、これを見たら「ああ、パイプの絵だな」という感想を抱くに過ぎない。
しかし、この言葉を理解する者が見たら、「パイプに見えるが、これはパイプではないのだな」と錯綜した思いを無理にも理解しようとする。絵に描いた餅ではないが、このパイプをもって煙草を吸うなんていう奇術は有り得ないのだからと。
つまり、パイプだけを認識した場合は、パイプに対する《肯定》があり、言葉を解した者にとってはパイプに対する《否定》がある。要するに一枚の絵の中に《肯定と否定》が共存しているという状況である。
『イメージの裏切り』という作品は、マグリットの二次元(平面)における二重の認識、二重の空間への挑戦、表明である。『マグリット』(西村書店刊)
わたしたちは、外国語(英語)の教本において、描かれた絵(ペン)と共に「This is a pen」(これはペンです)と習った。
言葉と描かれたもの(表象)とは、同一(言葉=そのものの説明である)であって、この基本概念は外すことのできない約束である。
☆では何故、マグリットが明らかに「パイプ」に見えるものを描き、「これはパイプではない」という言葉を記したか。
もし言葉を解さない者(たとえば幼児、言葉を解さない他国人)が、これを見たら「ああ、パイプの絵だな」という感想を抱くに過ぎない。
しかし、この言葉を理解する者が見たら、「パイプに見えるが、これはパイプではないのだな」と錯綜した思いを無理にも理解しようとする。絵に描いた餅ではないが、このパイプをもって煙草を吸うなんていう奇術は有り得ないのだからと。
つまり、パイプだけを認識した場合は、パイプに対する《肯定》があり、言葉を解した者にとってはパイプに対する《否定》がある。要するに一枚の絵の中に《肯定と否定》が共存しているという状況である。
『イメージの裏切り』という作品は、マグリットの二次元(平面)における二重の認識、二重の空間への挑戦、表明である。『マグリット』(西村書店刊)