今さら言うまでもないことかもしれない。けれど神奈川県立近代美術館で開催されている『湘南の画家たち』展を見て、やっぱり、と震撼とさせられてしまった。
『線より』
Lee-Ufanの仕事は、緊張・緊迫による世界(限られた二次元/平面)への挑戦である。精神の高揚と抑制を限りなく必要とする『無』にも関わる時間。(この線は引けない・・・と、わたしは作品を見ながら後ずさりしてしまう)
達筆というのとも違う。具体性(意味)を持たないからである。形を求める場合、形に近づく努力を惜しまなければ、それなりの成果が得られるが、それとは隔絶した世界である。
熟慮の時間は、絶え間なく襲う次の線へ挑むエネルギーに変換させられる。位置(配置/順列)を身体で計測することは、手先の作業を超え、全身の直観力を要求されるはずだから。
教則はなく、自身の存在感だけが拠り所である。一般に余白というが、空間(世界)との対峙である。
《自分の精神と世界の距離を測ること、その媒体としての作品である》
作品を前にすると、静謐な時間が流れているのを感じる。人間の呼吸やトキメキが凝縮している・・・いわば「永遠の時」と名づけたいような時の深さである。
この作品の前で立ちすくんでいる人を見かけたら、わたしは泣いてしまうかもしれない。
『線より』
Lee-Ufanの仕事は、緊張・緊迫による世界(限られた二次元/平面)への挑戦である。精神の高揚と抑制を限りなく必要とする『無』にも関わる時間。(この線は引けない・・・と、わたしは作品を見ながら後ずさりしてしまう)
達筆というのとも違う。具体性(意味)を持たないからである。形を求める場合、形に近づく努力を惜しまなければ、それなりの成果が得られるが、それとは隔絶した世界である。
熟慮の時間は、絶え間なく襲う次の線へ挑むエネルギーに変換させられる。位置(配置/順列)を身体で計測することは、手先の作業を超え、全身の直観力を要求されるはずだから。
教則はなく、自身の存在感だけが拠り所である。一般に余白というが、空間(世界)との対峙である。
《自分の精神と世界の距離を測ること、その媒体としての作品である》
作品を前にすると、静謐な時間が流れているのを感じる。人間の呼吸やトキメキが凝縮している・・・いわば「永遠の時」と名づけたいような時の深さである。
この作品の前で立ちすくんでいる人を見かけたら、わたしは泣いてしまうかもしれない。