続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

三浦半島の歴史7。

2015-06-25 07:04:57 | 博物館講座
〔菊池先生の授業〕

《上町から汐入周辺を歩く》
 博物館(深田台)を出て、隣接の文化会館の外観を眺めた。(50年前としては新式とのこと)
 (以前は本町に市民会館があって、子供のころ、美空ひばりのショーを観に行き、満席・立ち見の熱気を覚えている)
 次に上町の看板建築、出桁造り(出桁建築群)などを観察。
 上町教会(国登録有形文化財)の外観を眺めたりして、中央駅へ下り、三笠通りを通過(通り自体が縦に長い建物になっている)この通りもずいぶん変わってしまった。わたしが子供のころ・・・そう60年も経っているのだから当然か。
 現ヨセフ病院(旧海仁会病院)の外観を見学。
「ここは、詩人の立原道造が作図し、設計は石本喜久治の事務所が任にあたったというモダニズム建築です」
 どぶ板通り・・・小学校の頃、学校を挟んで住宅街と繁華街に分かれていて「向こうへは行ってはいけません」て、先生の忠告があった。向こうがどんな世界なのか知る由もなかったけれど、大江健三郎などが小学校の事情を詳しく書いていて、後年ビックリしたことがある。

 国道を渡り、ダイエーの二階の裏手へ回り込んで、基地内を傍観。「全景を見渡すには対岸から見る必要があります」というか、やむをえずの観察。
「フランス村はあの辺り、長官官舎はあそこ、工廠の宿舎は向こう・・・」先生は事細かに指さして説明。


 梅雨の晴れ間、小半日だったけれど、楽しいフィールドワークでした。

 菊池先生、ありがとうございました。
「単品でなく、面的な広がりの中で歴史を位置づけて考えたい」という先生のご主旨、よく伝わりました。

『冬のスケッチ』148。

2015-06-25 06:36:52 | 宮沢賢治
         ◎
  林間に鹿はあざける
    (光はイリヂウムより強し)
  げに蒼黝く深きそらかな
  却って明き園の塀


☆倫(すじみち)が現れる化(形、性質を変えて別のものになる)講(はなし)である。
 教(神仏のおしえ)を挿(さしはさみ)真(まこと)を脚(支え)とする。
 冥(死後の世界)を掩(隠して)並べている。

『城』2002。

2015-06-25 06:26:24 | カフカ覚書
そこで、フリーダは、あわてて外側の窓をしめたが、あいかわらず窓べに立ちつくしたまま、片手を窓の把手にかけ、頭を横にかしげ、眼を大きく見ひらき、こわばった微笑をうかべていた。


☆フリーダ(平和)は、急いで食(死の入り口)を閉めたが、円い食(死の入り口)の国(エリア)の背後にとどまり、傍らの中心人物と共に大きな機関と先祖の復讐を凝視していた。