続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『宴』

2015-07-29 06:37:03 | 美術ノート
《二十六日の月や三日月を星空の深夜に描くという異空間現出があるのなら、深夜真夜中に見える満月を真昼に現出される作品があるかもしれない》
 そう思って、探してみたら、有りました。『宴』という作品、カラーでないのでちょっと分かりにくいけど、空は昼の模様ではないかと思う。
 ただ問題はそれこそ、真昼に満月は重ねられない。つまり、描くことが不可能では?と感じていたところ、マグリットは樹木(林)の中に月を覗かせた。一見太陽と思われるかもしれないが真昼の太陽がくっきりこのような形で見えることはない。もちろん月も然りであるが、真昼に真夜中の満月を現出させるという意図は明確である。(ちなみに、木漏れ日が地上に落ちた形は丸く太陽の形である、ゆえに日食のときなどは欠けた形そのものであることは周知のとおり)

 マグリット『宴』を検索したら夕焼けの中、樹木(林)を突き抜ける真っ赤な太陽があった。夕日は残影である。ゆえに、この場面には時間差の不条理があるが、納得を促す条理もある。

『夜の服』では夕月(傾いた三日月)の形に描いている。一糸まとわぬ裸体、ほどいた長い髪の後ろ姿の女人・・・現実の神秘、エロスの美である。


 マグリットは常に現実を凝視している。その上で、現実と非現実の表裏の二重性を一つの場面に納めるという手法を用いている。

 要するに《有り得ない時空》にこだわり、それを現実の時空にリンクさせる。つまりは二重の相を持った時空の現出を提示するために三日月など(朔は見えない、故に描けない)を利用したのだと思う。

 わたし達は、現実と非現実の狭間を生き、言葉に教えられた観念の真偽を問うことなく甘受している。


 視覚・イメージ・言葉のリンク・・・そして、この目で確認したもの(出来事)を真実と捉えることに更なる疑問をマグリットは投げかけているのかもしれない。

(写真は『マグリット』㈱美術出版より)

 

『銀河鉄道の夜』31。

2015-07-29 06:23:47 | 宮沢賢治
中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転機がばたりばたりとまはり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌ふやうに読んだり数へたりしながらたくさん働いて居りました。


☆誅(罪を責めとがめる)を注(書き記し)伝える。
 討(問いただす)倫(人の行うべき道)の典(根拠があって正しいもの)を記す。
 祷(神仏に祈り)訊(問いただす)果(結末)がある。
 過(あやまち)の毒(わざわい)の主(中心)は動(乱れ、騒ぐこと)に拠る。

『城」2036。

2015-07-29 06:10:30 | カフカ覚書
到着がもう一晩でもおくれていたら、万事は、べつな経過をたどり、ひっそりと、なかば人知れずにおわっていたかもしれない。いずれにせよ、だれも、おれのことを知らず、うさんくさいともおもわず、旅の若造ぐらいに考えて、一日ぐらいはなんでもなく泊めてくれただろう。


☆ただ先祖の死が遅れていたら、万事は他の方法で静かになかば隠れるようにしていたかもしれない。いずれにせよ、誰にも疑われず、ためらうことなく旅の人ぐらいに考え、先祖の集会に許容されていただろう。