続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『現実の感覚』

2015-08-01 07:05:03 | 美術ノート
 大地の上に浮かんだ巨大な岩石、その上の二十六日の形をした月、雲が多いが青空の景である。

 不条理、自然の理の否定。二十六日の月が南中する時刻には太陽もその位置に在るはずで、見ることはできない。もちろん巨岩石が宙に浮かぶなどということはこの重力圏内においては有り得ないことである。

 この作品の前で、鑑賞者はこの巨岩石と対峙せざるを得ない。
《なぜだ、なぜ有り得ない景色が・・・》絶句し、その意味を探ろうとする。

 遥かに広がる平原と山々、そして流れる一すじの川は、現実の景色に相違ない。しかし、それを否定する巨岩石、その上の月。光源は真上にあると思って差し支えない影の差し方である。

 この存在は何だろう。わたし達は現実にこのような光景に出合うことはないと確信しているけれど、マグリットは『現実の感覚』であるという。


 主なる神はとこしえの岩だからである

 わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない(イザヤ書より)


『現実の感覚』は心象風景である。心の中に大きく位置を占める神への信奉、二十六日の月の南中は、決して見えないけれど、確実に存在するではないか。
 見えないが在るのだ、神もまた然り。見えないけれど、社会を動かすほどにその存在は大きい。

 巨岩石を神だと直感することは難しい。しかし、この光景に震撼とする感覚、これこそが真実への扉であり、現実の感覚なのだと提示する。


 非現実的な光景は現実の感覚の裏切りであるが、その逆も真かもしれない。

(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『銀河鉄道の夜』34。

2015-08-01 06:41:14 | 宮沢賢治
ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向ふの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むとちいさなピンセットでまるで粟粒ぐらゐの活字を次から次と拾ひはじめました。


☆尽(すべて)を択(良し悪しを見てより出す)詞(ことば)を測(予想する)、逸(隠れた)章(文章)は蔽(おおわれている)。
 換(入れ替わる)講(はなし)を伝えると、透(すけて見える)癖(習性)に遇(であう)。
 諸(もろもろ)顧(気にかける)章(文章)の続きを留めると、割(二つに分ける)辞(ことば)が示される。
 弐(弐つ)が重なっている。

『城』2039。

2015-08-01 06:22:11 | カフカ覚書
見かけは丁重だが、じつはうるさいほどのしつっこさで即座に決定してくれと求められたおまけに、その張本人が城ではおそらく鼻つまみ者になっているシュヴァルツァーときていた。


☆見たところは謙虚だが、実は煩わしく、情け容赦なく先祖に要求を迫った、その上それがさらに愛されてもいなさそうなシュヴァルツァー(影の人)だったわけである。