続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『Ⅲ-3-11 飛葉と振動』

2015-09-25 06:46:32 | 美術ノート
 飛葉とはどういう意味だろう、飛葉でなければならなかった必然性はどこにあるのだろう。

 葉が飛ぶ…葉が飛んでくる…葉が飛ぶという現象は、つまりは落葉である。その葉の終末は死を意味する。もちろん植物は再生の芽を出し、その循環を繰り返しながら成長していく。その過程を早送りで視界に納めることが出来るなら、それは観察者との間隔において一つの振動という現象を露わにするに違いない。

 葉である必然性は、人工物でない自然の賜物であることに因している。あるがままの自然の中の存在物として『葉』を選択したと思われる。
 観察者の時間(人生/生存)における対象物としての選択である。
 落葉樹は、ほぼ一年の周期、常緑樹も葉の交代がないわけではない。葉から樹木、樹木から森へと広がる世界(光景)に観察者の高揚していく気持ちが伝わってくる。

 緑は光合成によって酸素を放出する、観察者はその酸素で生命をつないでいく。この大いなる振動の揺れは見えない、しかし確実に大気の中で循環している運動である。


 視覚と緑(樹木/森)そして呼吸と光合成。この関係は未来永劫続いていく存在の根拠であり、地球という大地の上の欠くべからざる生存の大前提である。


 作家は存在の根拠を突き詰めて「葉」を一つの選択肢としたのだと思う。
 存在者の立ち位置に巡る風は緑を孕んでいる。生命の秘密はここにあり、その振動は、あくまで曖昧である。なぜならその曖昧さこそが雰囲気であり、振動だからである。

 対象物の模索ではなく、対象物との関係における空間の揺れに執着した活動は、静かなる生命歓喜のような気がする。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

『銀河鉄道の夜』89。

2015-09-25 06:30:09 | 宮沢賢治
「川へ行くの。」ジョバンニが云はうとして、少しのどがつまったやうに思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。


☆千(たくさん)の講(はなし)を運(めぐらせている)。
 照(あまねく光があたる=平等)の志(思い)は、常に基(根本)の記としての教(神仏のおしえ)である。

『城」2094。

2015-09-25 06:17:13 | カフカ覚書
そして、そのために、バルナバスに助けてもらおうとおもっているのです。ぼくの希望の多くは、彼の肩にかかっています。


☆そして、バルナバス(北極星=死の入口)は、わたしを助ける義務がある。わたしの希望の死は、バルナバス(北極星=死の入口)にかかっています。