『会話術』、どこに会話があるのだろう。
牛に突き刺さった刀、流れる血、海と空、アーチらしき断片、牛にかけられた赤い布、遠くに見えるのは船でなく建物(町)である。Espana/スペインと読める文字。
スペインの闘牛…しかしこの牛は死んでいない。刀は前頭部にあり、付け根まで刺し込まれていない。半死の状態で起き上がろうとしている惨状。
現場は闘牛場ではなく海岸・・・岸壁か単に地上であるのかは分からないが瀕死で倒れ込み、打ち捨てられた態である。
ここに会話はあるか・・・。会話は相手との対話であり、時間を共有することである。
しかし、相手は不在、つまり自分自身との会話ということかもしれない。自身への問いであり答え、繰り返される反問、答えの見つからない永遠の会話である。
『生と死の劇場』である闘牛は、完全なる死をもって幕は閉じられる。しかし、死ぬことの出来なかった瀕死の牛は喝采を浴びることはない。命の水は牛に届く位置に在るのだろうか。
生か死か・・・。
マグリットは考える。この人為的享楽のために奪われていく生命に尊厳はあるのだろうか。断ち切られた生命の連鎖・・・否、蘇生は可能かもしれない。少なくとも死は認められない状態である。
この作品における『会話術』とは、集団思考の残虐認可、自然に対する傲慢さへの問いではないか。非情さが時として公に肯定されることの驚異である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)