『嵐の装い』ここに装いがあるのだろうか。華美に美しく見せるなどという営為は微塵もない。切り刻まれた薄っぺらな紙状のものが平面に対し直立している、まるで意志があるかのように。
有り得ない光景である。林立したこれらの白い(ベージュ/無色)得体の知れないものは何なんだろう。一見して擬人化を感じてしまう、もうそれ以外のものではないという確信さえいだく。装うという行為は人間以外の動物にはないからである。
それらの影は海の側に落ちている、つまり光源は左上方からであるが、荒れる海とは隔絶された世界であることは、手前の地が岸壁でも砂浜でもなく全くの平面であり、両脇は壁状のものに遮られていることで察しが付く。
白い紙状のものは何故か、嵐の海を見ているように感じる。つまり全員が荒れる海を危惧している光景に見えるのである、こちら(前)を向いているかもしれないのにも関わらず。
荒れる海の難破船、闇黒の空、状況は最悪である。この状況に背を向けているとは考えられない、それが通常の心理である。彼らは為す術なく隔絶された世界(冥府)から現世の嵐(闘い)を見ている。
刻まれた紙状のものは、刻まれた傷の記憶ではないか。切り刻まれた傷心の御霊が見つめる嵐(闘い)。
心も体も傷だらけの霊界の亡霊が現世の嵐(闘いの闇)を見つめている。
《満身創痍》は誇るべき華美な装いではないか。
現世での辛苦は、来世では装いと称せられるのかもしれない。
マグリットの切なるつぶやきが聞こえる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)