続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『影』

2015-11-20 07:08:47 | 美術ノート

 『影』とは何を指すのだろう。
 水色の地平、水面なのか大地なのか、単に床なのかは判別できない。だから、樹木とパイプが浮いているのか、重力を持って在るものなのかも分からない。

 樹木が小さいのか、背後にあるパイプが大きいのかも分からない。第一ここは地上なのだろうか、空はピンクで上にいくほど黒ずんでいる。けれど、水面に直立する樹木はない、故にここは地であり空であるという答えを確信してしまう。

 影=存在感である。
 影は(やや左)真上から射しているのか水平の線状に描かれているのみであるが、不自然であり、有り得ない影の形である。
 確かに物の形はそれ(パイプであり、樹木)と認められる。しかし、通念としての大きさの差異に戸惑ってしまう。
 「これはパイプではない」あるいは「これは樹木ではない」というように一方を否定すれば、一方は肯定できる。しかし、両立には集積されたデーターに混乱をきたすので、二つの共存は明らかに「NO」と拒否される現象であるよりほかない。

 影=イメージ・幻影・有様である。
 心に浮かんだ面影は、重力など物理的な条件に左右されない。
  ただそれは心の中(精神界)でのみ許される現象であって、即物的に置換されうる現象ではない。

 これらのギャップを提示している作品は、見る者の正しくデーター化された観念を突き崩してしまう。《断じて違う!》という否定の後に残る微かな動揺は《あり得るかもしれない》という自身の観念化されたデーターへの不信である。

 しかし、鑑賞者は考える。存在とは何であったのかと。
 影は、存在であり幻影である。しかし、その物ではないのだと。
 しかし、その対象物は影(イメージ)をもって見る者に知覚を促し、受信されるのである。

 マグリットの作品は常に問いであり答えである。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』145。

2015-11-20 05:53:30 | 宮沢賢治

「ハレルヤ、ハレルヤ。」前からもうしろからも声が起こりました。ふりかへって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の数珠をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈ってゐるのでした。


☆全て照(あまねく光があたる=平等)を記している。
 現れる赦(罪や過ちを許す)を質(問いただし)、忠(心に偽りなく)慮(考え)尋(聞きただし)遂げている。
 酷(容赦なく)強く遂げる。
 照(あまねく光があたる=平等)を需(もとめる)崇(けだかい)仁(博愛や同情の心)を拝(敬い尊重する)。
 蘇(よみがえる)業(前世の報い)の鬼(死者)である


『城』2150。

2015-11-20 05:43:43 | カフカ覚書

考えてもごらんなさい、。直接クラムの所に配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前で呼ばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか」


☆考えてごらん無さ。直接クラム(氏族)のところに割り当てられていて、口から口へ伝えられ、話すことが出来ます。しかしながら、そうでしょうか。ええ、そうかもしれません。でも、なぜバルナバス(生死の転換点)は、それに反抗し、来世において、クラム(氏族)として特徴づけられていますが、本当に氏族なのでしょうか。