『影』とは何を指すのだろう。
水色の地平、水面なのか大地なのか、単に床なのかは判別できない。だから、樹木とパイプが浮いているのか、重力を持って在るものなのかも分からない。
樹木が小さいのか、背後にあるパイプが大きいのかも分からない。第一ここは地上なのだろうか、空はピンクで上にいくほど黒ずんでいる。けれど、水面に直立する樹木はない、故にここは地であり空であるという答えを確信してしまう。
影=存在感である。
影は(やや左)真上から射しているのか水平の線状に描かれているのみであるが、不自然であり、有り得ない影の形である。
確かに物の形はそれ(パイプであり、樹木)と認められる。しかし、通念としての大きさの差異に戸惑ってしまう。
「これはパイプではない」あるいは「これは樹木ではない」というように一方を否定すれば、一方は肯定できる。しかし、両立には集積されたデーターに混乱をきたすので、二つの共存は明らかに「NO」と拒否される現象であるよりほかない。
影=イメージ・幻影・有様である。
心に浮かんだ面影は、重力など物理的な条件に左右されない。
ただそれは心の中(精神界)でのみ許される現象であって、即物的に置換されうる現象ではない。
これらのギャップを提示している作品は、見る者の正しくデーター化された観念を突き崩してしまう。《断じて違う!》という否定の後に残る微かな動揺は《あり得るかもしれない》という自身の観念化されたデーターへの不信である。
しかし、鑑賞者は考える。存在とは何であったのかと。
影は、存在であり幻影である。しかし、その物ではないのだと。
しかし、その対象物は影(イメージ)をもって見る者に知覚を促し、受信されるのである。
マグリットの作品は常に問いであり答えである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)