続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『大気中の緑色に属するものⅡ』

2015-11-27 07:22:13 | 美術ノート

『大気中の緑色に属するもの』

 大気とは地表面をおおう空気(気体)のことであり、作家はあくまで視野/視界において感受しうる空気感(振動を注視している。
 それを彫刻という範疇で表現するという…難題である。

 緑色に属するものとは何を指すのだろう。植物(草木)は当然のこととして、なぜ《属する》と付加しているのか。
 大気は透明である、しかし光はプリズムに通すと7色に分解される。そして光の3原色は緑・黄・赤であるから、大気中には確かに緑色に属するものは存在していると言える。見えないが在るものでもある。

 《見えないけれども在るもの》への固執、確かに見えないものの中に脈々と動いているであろう緑色という色素(光エネルギー)。
 緑色といえば、植物であり自然一般を指す。

 植物は光合成により光を吸収する。このとき植物の持つ葉緑素(クロロフィル)が、赤色と青色を吸収することで、残りの緑色の光が反射されたり散乱されたりしてわたし達の目には緑色に見えるという。


 若林奮は、単に緑の壁(森・森林)を描き提示したのではなく、その緑(森・森林)が緑として見える大気中の振動を提示したのであり、見えない振動への挑戦である。空中(目の前の空気)の微細な揺れを距離感をもって一つの確定としたかったのだと思う。


(写真は神奈川県立近代美術館『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』152。

2015-11-27 06:42:18 | 宮沢賢治

 早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのほのやうなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらはれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。


☆双(二つ)に録(書き記したもの)を套(おおっている)と、吐く。
 注(書き記す)総(すべて)は化(形、性質を変えて別のものになる)で流(移動する)。
 記の展(広がり)は、鬼(死者)の全(すべて)を想い、解(ばらばらにした)痛(心に痛みを感じる)記である。
 赦(罪や過ちを許す)元(根本)は逸(隠して)裂(バラバラに離し)伝える。
 套(おおった)の記の則(きまり/道理)は、照(あまねく光があたる=平等)が題(テーマ)である。
 字の図りごとは弔(死をいたむ)途(道筋)であると吐く。
 帖(ノート)の定(決まり)は、赦(罪や過ちを許す)である。
 常なる題(てーま)であり、弐(二つ)を掲げた繕(つくろう/なおす)記である。


『城』2157。

2015-11-27 06:29:42 | カフカ覚書

けれども、お城では、使者の仕事をもっとべつなふうに理解しているのです。それは、あなたのお考えとはとても両立しないものですーたとえばバルナバスが自分の仕事に粉骨砕身しましてもね(残念ながら、ときどきそんな覚悟を決めているんじゃないかとおもえることがるんですのよ)。


☆けれども結論としては、晩餐の小舟を別なように表象しているのです。それは、あなたのお考えとは一緒にはなりません。バルナバス(生死の転換点)が晩餐を神に捧げるのです。悲しいことに沢山の汚点(傷痕)を覚悟をしているのです。