今年もニガウリの苗を植えた。
気づけば、すでに用意した網を超える勢い。(ス、スッゴイ)
従弟が持ってきてくれた「陸わかめ」の苗も蔓をはい出した。
「歩こう会」のメンバーがくれた「スズメ瓜」も伸びている。これは可愛い実がなるので楽しみに植えたこともあるけれど、かわいさとは別の凄い威力で壁を覆いつくす勢いがある。是非とも遠慮がちに育ってほしいと願うばかり。
とにかく夏の植物のエネルギーには驚かされてしまう。
《グングン伸びる》ってすごいよ・・・。
朝顔も植えたけど、彼らの猛威にくらべたら、こちらは少々上品な生育。
夏を乗り切る覚悟を彼らに助けてもらう算段、よろしくね。
「お祖母ちゃんはいつまで生きるの?」と子供に聞かれ苦笑した、という投書を読んだことがある。
確かに年寄りというのは幼い子供にとってそんな存在かもしれない。
(いつまで生きるの?)こちらが神様にお聞きしたい最大の疑問である。
解けない難問ではあるけれど、いずれ解けることは確定している。目に見えない順列は未来では周知のことであり、本人には非通知であるだけかもしれない。
『7人家族の真ん中で』でのギボ子さんの死、哀しいけれど、いつかその日は来るのだと知らされる。ファッジさんご苦労さま・・・。
『藤原家の毎日家ごはん』の杏ちゃんの元気、みきママの才気活発なぶち抜けた陽気に慰められている。
「いつまで?」の重い課題を『楽しいスケッチ』さんの旺盛かつ静かな熱意に押され、忘れている日々。
いろんなブログに励まされている。自分が書いていることを含めて、ブログなんていう新発明に助けられている日常は(まさか)の坂を上っているような錯覚すら覚える。
いつまで続くのか分からないけれど、(生きているのも悪くないな)と思う。
『啓蒙時代』
石積みの開口部から外を見た光景であり、空中には人の眼(右目)と鼻と口が人の顔の一に正しく浮遊している。ただし左目の場所には気球が位置している。
草木のないことから標高の高い山の想定であり、これらの条件に『啓蒙時代』があるという。
わたしたちが確信している視覚、そのデータの集積が脳に規律を形成する。
(こうあるべきであり、こうあるはずであると)このことはほぼ当たってる、この確信がなければ社会生活はスムーズに立ち行かない。
しかし、とマグリットは考える。
精神界の眼差しを、無理にも物理の条理に譲歩してはいまいかと。
部分(パーツ)は総体を確信に近いまでに想起させるのは経験による作用である。
数の論理、多数は少数を制覇し、飲み込んでしまう。顔のパーツが三ケと一個の気球ではどんなに気球が巨大であっても顔のパーツに組み込まれてしまうのである。
条理の下に浮かぶ気球は、不条理に並置された顔のパーツの一部として無意識にも意識される。
不条理が条理を食う現象である。あり得ないことが、精神界においてはまかり通るという《ごく普通の感覚》を啓蒙している。
想像力を現実の景色に被せることは可能であり、むしろここに社会的な常識は通用しないのである。
(写真は『マグリット』西村書店刊より)
「まあ、この鳥、たくさんですわねぇ、あらまあそらのきれいんこと。」女子はジョバンニに話しかけましたけれどもジョバンニは生意気ないやだいと思ひながらだまって口をむすんでそらを見あげてゐました。
☆懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)を助ける照(あまねく光が当たる=平等)の意(考え)を記している。
死の講(はなし)を兼ねている。
「悲運とか弁護士とかいっているが、いったい、なんということですか。ソルティーニのやりかたが非道きわまるのに、それを理由にアマーリアを告発したり、それどころか、処罰したりするようなことができるものですか」
☆しかし、先祖の悲運やその弁護はどうなのでしょう。ソルティーニの分別ある行為も犯罪になりかねません。アマーリアを告訴、あるいは罰することは全くありません