後ろめたいけど、油壷で昼食後はリタイア、バス停で恥ずかしながら健脚組に手を振ったわたしたち三人の軟弱組。
その筆頭のわたし、「これで十分!」と自ら言い聞かせて帰宅の途。
ちょっと歩き足りない感もあったけど万歩計を見ると9000を超えていたらしい。健脚組は荷物を下ろして楽しい道行きになったに違いないと思うと、ズズーッと気持ちが沈下。
(でもいいの、歩かせていただいて感謝。この次はコースを踏破したいナ)
油壷湾て、本当に油を流したように波静か。
ここに荒井城があった昔日を偲んだことでした。
『泉』
これを展示会場に見るとしたら、やはり奇妙であり困惑は免れない。
しかし、ふと足を止め考える。(これは泉ではない)と。泉とは清冽なもの、美しく澄んだ水の湧き出る場所を言う。
(では、なぜ?)
ここに共通点はあるか。
水は元始地球の始まりからあった水が循環し今に至っている。
泉と称された便器は人間の排泄した尿を放出する場であり、泉のような浄化された水が湧き出る場とは真逆である。
しかし、この真逆は億年の月日をもって蘇る可能性を持った真逆であリ、地球の呼吸である。地上に美しく放たれる清浄な水は、汚水に等しい永遠の水の変態であれば、便器をもって『泉』と命名し提示したデュシャンの行為は、地球真理あるいは生理としての命題の応えである。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰るんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまその神さまよ。」
「さうぢゃないよ。」
「あなあの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。
☆模(ぼんやりしてよく見えない)講(はなし)は、業(善悪すべての行い、それが将来及ぼす影響の)講(はなし)である。
尽(すべて)は深く信(いつわりがない)真(まこと)を要(かなめ)とし、仁(人間)の照(あまねく光が当たる=平等)の念(思い)の章(文章)を運(めぐらせている)。
で、父は、その話をわたしたちにしていたのです。父は食事のとき手足をゆったりのばすのが好きでしたが、このすわったまま両腕でテーブルを半分ばかり抱きこむようにしていました。
☆父はただそういう話をしていました。好意的なやり方のようでした。当然交換し、彼は未解決な秘密の(死の入口)から天を見上げていました。