階段は怖い。
息子の家で階段のコーナー(三角面)に物が何気なく置いてあるのを見て「ここだけは片づけてほしい」と息子にお願いした。
「5人家族のうち誰が怪我をしても困るもの」と、サークルで話したら、Kさんは、
「うちは手すりがついているから」という。(?)
「もしかして物が置いてあるのね」と言ったら、
「だって二階へは寝るときに行くだけですもの」と澄ましている。
物が置いてあることを否定しなかったKさん、たしかに何気なく置くのに便利なエリア、「でもね」と言いかけて黙ってしまった。
「救急車の隊員さん、階段に置いてあるものを蹴飛ばして二階の病人を運んだわ」と聞いたこともある。
階段だけは物を置かない一時的に置いても即片付けることを心掛けているわたし、転倒や滑り落ちることへの不安を常にイメージして用心の上にも用心している。
万に一つの危険かもしれないけど、何かあってからでは遅い。緊張感あるクリアーな生活を心掛けたい。(ああ、これって年寄りの心配なんだろうか・・・)
『花嫁』(写真の右は『花嫁』左は『処女』)
作品を観る限り、一般的に抱く花嫁のイメージはないし、人間でさえないように思われる。
花嫁あるいは処女とは、何だったのか…物理的に言えば処女膜が未開、男女の営みが未経験であるということだけれど、二次元(平面)に描写しうる現象は現れない。
ではなぜ『処女』あるいは『花嫁』に固執したのだろう。男性からの見地(欲望)というのでもなさそうである。
秘密裏に行われるであろう変化、あるいは移行は、公開すべき事情では断じて無い。
花嫁(処女)から受精しうる体躯になる現象が衆目に曝されるというのは道徳に反するが、あえて『花嫁』や『処女』を題目とするのは、反骨ではなく人間の歴史・連鎖の鍵をそこに感じているからではないか。
作品はきわめて機械的に見えるのにどこにも連鎖がなく、焦点や起承転結の流れも認められない。つまり描かれるが、目的を持たない《~らしく見えるもの》に過ぎない。
意味不明の幻想、喜怒哀楽の感性もない単に形が暗示する意味(例えば切断・落下のイメージ)が切れ切れに接合している景色なのである。
これを以って『花嫁』とする混沌。花嫁と題しているが、花嫁の片鱗もない景色への戸惑い。要するに仮想であり、解体を余儀なくされる無用の構築である。
ある(存在する)が、仮象(非存在)であることへの眺望、果てしなく無為に解体されていく幻想の図である。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
女の子もちゃうどその通りにしました。みんなほんたうに別れが惜しさうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出さうとしました。
☆叙べる詞(ことば)は、tw0(二つ)に別れる。
晰(あきらかに)信仰の照(あまねく光が当たる=平等)を盛んに誦(となえている)。
兼ねた章(文章)を究め推しはかること。
母は、そんなことを言うものじゃない、とたしなめました。父は、アマーリアのおしゃまな物知りぶりを笑っただけでしたが、急にだまりこんで、なにか紛失物にそのときはじめて気がついて、それをさがしているように見えました。
☆母は、そんな話を非難しました。父(先祖)は、いろいろ突っ走るませた話を笑っただけでしたが、その時この失敗に初めて気がついて、それを捜しているようでした。