まだ生きている!って、誰が?
わたしは、まだ生きていることに驚いている。
夢でも幻でもないわたしが、ここにまだ生きている。
生きているというか、生かされているというのか…。
69才、まだまだ生きねばならないのだろうか、明日のことは分からないけど、まだ続きがあるなんて!
これからどのくらい生きるの?
予定が立たない、立てようがない予定だけれど小さな手帳に予定を書き込んでいく。
(もうこれっきりかもしれない)
不穏な空気が胸にうずく。
とりあえず元気出して今日も頑張りましょう、今日あることに感謝して。
(永遠の挑戦者であり続けるために)
『急速な裸体たちに横切られた王と女王』
急速な裸体たちの意味が不明である。裸体たちは二人以上、あるいは群衆であるが、急速という形容に結びつかない。すでに言葉の結合が壊れている。
王と女王を横切るという意味も不明である。一つ一つの言葉(単語)は理解できるが、その羅列には目的も結果も見出せない。
つまり作品も、そういうことなのである。
描かれた線描は意味ありげであり、少なくとも何かの形を想起できないこともないというものの接続である。
鑑賞者は作品の意味を見出そうと思考する。この場合すでに耽美的領域を外し他の概念を当てはめようと試みるかもしれない。しかし、行き着く合意に至ることは不可能である。
なぜならそのように意図して描かれているからで、デュシャンの目的は描いたものを肯定的に鑑賞する眼差しを拒否しているからである。
デュシャンが、作品(タイトル共)を描く、あるいは鑑賞者の前に提示するのは作品そのものを鑑賞させるためではない。鑑賞者と作品の間の亀裂ともいうべき《空気、空虚感、困惑、混沌など》を感知させるためなのではないか。
微妙な虚脱、断絶ともいうべき見えない壁、デュシャンは作品と鑑賞者の間に生じる空気《非存在であるが存在している》を差し出したのだと結論する。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
「さあもう支度はいゝんですか。ぢきサウザンクロスですから。」
あゝそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木といふ風にかかってゐるのでした。
☆詞(ことば)で図る。
現れ転(物事が移り変わること)を、詮(あきらかにする)。
千(たくさん)の化(形、性質を変えて別のものになる)章(文章)は祷(祈り)の講(はなし)である。
自由に弐(ふたつ)を課(割り当てること)が逸(隠れている)。
翻(ひっくり返すこと)は黙っている。普く千(たくさん)の註(意味を書き記す、解き明かす)を、留めている。
常に照(あまねく光が当たる=平等)を運(めぐらせ)換(入れ替わる)互の講(はなし)である。
しかし、なにも紛失物なんかあるわけがありません。そこで、さっきブルーンスヴィックがなにか使者だとか、手紙がやぶられたとかとおいう話をしていたが、おまえたちはその話を知らないか、だれのことなのだろう、どういうことなのだろう、とたずねました。
☆しかしながら、罪科のことは言わず、ブルーンスヴィックが先祖の小舟や証明書を引裂くという話でしたが、あなたたちはその話を知っているのか、どういう関係なのだろう、それによってダメになったのだろうか、と訊ねた。