続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

冒険家の彼女。

2016-10-11 07:32:25 | 日常

 Oさんは、夏になると山へ行く。山と言っても行楽地まがいの低い山ではなく、切り立った崖を登る冒険家のコースである。

「天童荒太の小説に錆びたチェーンを頼りに山頂へ行くシーンがある」と話したら、
「チェーンはね、当てにしちゃあダメなのよ。もうどうしようもない時、片足だけ掛けるの。そうして残りの二本の手と足の三か所の支えで登って行くの」という。
「・・・」あまりの凄さに応じる言葉を失ったほど。

「でもね、上へ行くのはどんな絶壁でも夢中で登るから、そんなに怖くないの。下りる時よ、本当に怖いのは・・・。でもでも、行きたいの。来年の山の予約もしてあるわ、ほんの十分で締め切られるほどの人気なのよ」

 切り立った山、断崖…鷹取山のほんの短い断崖(鎖場)も、上るのはともかく下りるのはもうこりごりのわたし、とても彼女の話には呆然とするばかり。

「わたしもあと二、三年てとこね」と笑った彼女に、ただただ憧憬と畏怖の念を抱いた情けないわたしでした。


デュシャン『Fresh Widow』

2016-10-11 06:48:39 | 美術ノート

 『Fresh Widow』(なりたての未亡人)

 不思議なタイトルである。Freshとdieの共存、新しいことは死滅と同時に発生する?誕生と死は表裏だろうか。
 なりたての未亡人、夫が死んだ刹那を(Fresh)と呼ぶ…確かに客観的事実である。

 そしてこのミニチュアのフランス式窓を『Fresh Widow』と名付ける。(この窓は日本の仏壇もしくは位牌に似ている)
 窓には、こちらと異なる世界があるような幻想を抱かせる開閉の仕組みがある。

 すでに夫である死者はこの世の人ではない、残された妻の哀しみをフレッシュ(新)と括る感性は、むしろ物理的状況判断であり、黒い革で覆われた窓は空気(世界)の遮断である。

 葬送の窓だろうか、死者の魂を留めておきたい閉じた窓なのだろうか。
 死は惜別の時である、窓には開く仕掛けがあるが、閉じるものでもある。

 窓の持つ魔力、宇宙にも遠くを望む〈宇宙の覗き窓〉と呼ばれるエリアがある。
《ずっと向こうへ逝く魂》と《残された魂》、この離れゆく魂の刹那。窓は一つの象徴かもしれない。

 静観の眼差しである。


(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)


『城』2448。

2016-10-11 06:13:31 | カフカ覚書

わたしたちは、だまっていました。そのころまだ子羊のように若かったバルナバスは、なにか特別ばかばかしいとか、突拍子もないことを言いました。それから、べつの話題になり、この一件は、忘れられてしまいましたの」


☆わたしたちは、だまっていました。当時子羊のように若かったバルナバスは、全くバカバカしい大胆なことを言いました。でも、それからこの事件は忘れられてしまいました。