続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

世の中は変わっていく。

2016-10-18 07:38:22 | 日常

 昭和の暮らし、道具・・・。我が家などは昭和を引きずっているが、例えば息子の家などに行くと、洗濯をし終わったら乾燥機、食事の後は食洗機、寒暑はエアコンでというように、時短節約(?)生活である。

 ベランダに洗濯物がはためくなどというのは過去の光景と化す日も来るのだろうか。

 富山の薬売りの人が大きな荷物を背負ってやってくる、荒縄で縛りつけた氷一貫目を欠き割って口にしたあの暑い夏の日の思い出、固く絞った布巾で洗った食器を拭くなんていう仕事は、むしろ不衛生だと笑われる日が来るのだろうか。

 スマホの進化で、みんなが下を向いている。ちょっと道を尋ねようとしても、イヤホンをつけている。

 未だ昭和の暮らしの真っただ中にいるわたし、どこを向いて歩けばいいのか、さっぱり迷子状態。《付いていけない》を実感している。


デュシャン『約一時間片目を近づけて(ガラスの裏面から)見ること』

2016-10-18 06:40:24 | 美術ノート

 『約一時間片目を近づけて(ガラスの裏面から)見ること』

 ガラスの裏面…この作品を実際見たことはないが、表裏どちらからも同じように(逆向きではあるけれど)見えるのではないか。(裏面から見ること)というのは不思議な言い方である。表があって裏を見る、鑑賞者は作品の裏面に回るが、多分同じものを確認するに過ぎないのではないか。

 上方に描かれた四角錐の色の濃い部分(三角形)は前に出ているようにも後ろにあるようにも見える錯視がある。
 角柱の錐の頂点は、接点を持つ線の支点にも見え、左右の丸(円形)の均衡を保っているような感を抱かせる。そして、今しも落下を予期させる未来の時間を含んでいる。
 角柱の立地点は斜めの平面に見え、ガラスの面とは異なる面を見せている。

 つまり、経験(情報の集積)からくる錯覚を盛り込んだ作品である。表裏どこから見ても、種も仕掛けもない。しかし、ガラスという平面から飛び出す錯視が鑑賞者の目を否応なく刺激する。しかも、左右の目を片目づつ開けて見ると、物の位置が移動、動くのである。

 《見る》とはどういうことだったのか。
 見えることは有るということである。
 では(錯視・幻視)は、存在だろうか。《無》を《有》と確信する不安定な眼差しを持つ、人間存在の不確かさ…。
 揺れ動く錯視もまた現実には違いない。人の目の不確かさの確認のために、『約一時間片目を近づけて(ガラスの裏面から)見ること』を指示したのかもしれない。


(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)


『銀河鉄道の夜』269。

2016-10-18 06:30:42 | 宮沢賢治

「ぢゃさようなら。」女の子がふりかへって二人に云ひました。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらへて怒ったゆにぶっきり棒に云ひました。


☆叙べる詞(ことば)は字の図りごとで運(めぐらせている)。
 究(つきつめて)推しはかる度(決まり)の謀(はかりごと)を、運(めぐらせている)。


『城』2454。

2016-10-18 06:17:31 | カフカ覚書

(わたしたちも、できるかぎろその後押しをしました)、しまにそれをあきらめて、お客たちが品物をさがすのをだまって手つだってやりました。注文帳は、一行ずつ線を引いて消されていき、お客たちがあずけておいた皮は、それぞれ持主の手に返却され、未払いの勘定も、清算されました。そのさい、いざこざなどは、すこしも起こりませんでした。


☆わたしたちも、すべて(死)後押ししました。わたしたちは父(先祖)を支え、人々がそれをさがすのを黙って手助けしました。行列に線を引いて抹殺していき、用意された噂話は、それぞれ何の論争もなく消去されました。わたしたちとの関係を早く完全に解決できるなら敗北など気にしませんでした。