アイクルで「吊るし雛」の講座を受講している。
手縫いが好きなわたし、吊るし雛には大いに関心を抱いて、西公民館、福祉会館、そしてアイクルの三度目の受講である。何とかその手法を自分のものにしたいけれど、肝心の布地は入手できない。
ところが昨日サークルの帰り道、30円の石鹸を見つけ3個ほど手に取ってレジに向かったリサイクル屋で、レジの脇に見つけました。
女児の鮮やかな着物を見た時の動悸、嬉しくて飛び上がりたいほど。
家に帰るなり、解いて洗い、アイロンをかけました。約3時間の行程、苦も無くルンルン気分。
明後日の講座、七宝毬の宿題も済んだし、つぎは桜・・・楽しみ!
『泉』
陶製の小便器、これを見た時の衝撃(わたしの場合、想像したに過ぎないが)は、いかばかりのものだったろう。
グロテスクである。
一日に何回か向き合うであろう便器を、作品として目の前に展示されたときの嫌悪感。
しかも『泉』と美しいものの命名に転嫁されている。入れることと出すことの生理作用によって生命の維持があるが、出来れば秘密裏に伏したい現象である排尿。
便器に向かう行為は否定できない必然であり、便器は性器を露わにする場でもある。
その現象をありありと見せつけられる作品『泉』を正視せよ!と言っているのである。
万人が同じ行為をするにも関わらず、他人の目に曝すことは断じて拒否せざるをえない個人の秘密。その暴露とも言える『泉』と称した便器。
《無いもの》として隠したい現象を《有るでしょう》と差し出した便器。生命維持の基本である排尿を自然(地球)の摂理としての泉になぞらえたことは、むしろ当然の理かもしれない。
(泉って、地球のおしっこだったの?)デュシャンの含み笑いを感じる。
デュシャンは《無》を熟考しているが、《有》の原理を問い質してもいる。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
女の子はいかにもつらさうに眼を大きくしても一度こっちをふりかへってそれからあとはもうだまって出て行ってしまひました。
☆叙べる詞(ことば)に現れる題(テーマ)の、逸(かくれた)図りごとを推しはかる。
そして、ついに、予期しなかったことではないのですが、消防団長のゼーマンがあらわれました。いまでもあのときの情景が、ありありと眼のまえにうかびますわ。
☆そして、死を予知する、火のような輝き(太陽)に対抗するゼーマン(海/水)があらわれました。