続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『吊るし雛』講座②

2016-10-22 07:10:32 | 市民講座

 〔伏見先生の講座〕

 二日目である、隣席だったAさんは欠席。わたしも不器用だけど彼女も似たり寄ったり。わたしは過去に少々経験があるので何とかついて行かれそうだけれど、彼女には危ういところがあった。
 最近の市民講座にはメンバーの住所や電話番号の通知がないので、彼女に連絡したくてもできない。(がんばりましょう、不肖ながら、わたしがお手伝いいたします)そう伝えたかったのに。

 次回には顔を見せて下さり、この事が杞憂に終わればいいのにと願っています。《Aさん、折角お友達になれたのだから、頑張りましょう》って誰か伝えて!

 ちなみに昨日は七宝毬の仕上げと桜を作りました。
 


デュシャン『チョコレート粉砕器.No2』

2016-10-22 06:20:13 | 美術ノート

 『チョコレート粉砕器.No2』

 チョコレート粉砕器に似ているに過ぎない。どの部分を見ても回転するには不備があり、機能することはないと思われる。貧弱な猫足を持つ台のプレーンな平面、その上のローラーの歪み(線分により、あたかも正確な円形であるような錯覚を抱かせる)、それを圧する円盤の無意味なほどの小ささ、それに付属する持ち手の意味のなさ・・・支柱も角柱なのはどういうものか等々、設置場所/位置の不明、どこを見ても関連性に欠ける器械である。

 一見、それらしく見える。しかし、それでは無い。
 チョコレート粉砕器と名付けている。しかし粉砕器の機能が皆無である。

 それらしく見える物の滑稽を描いて、それを見る鑑賞者の眼差しを観察していたかもしれない。
 鑑賞者はタイトルと作品を、ひとまず肯定的に眺めていく。器械を制作する技術者が見れば一目瞭然の噴飯物を、美術(アート)にはすべてを許容するような暗黙の空気があるので曖昧なまま、むしろ不審を振り切ってしまうのではないか。

 この粉砕器は粉砕器自体が積み木の粉砕器であって、崩壊は予測の範囲にあリ、すなわち《虚》である。それを《実》と認識させようとするところに作家の意図がある。
 《虚》を《実》と言えば、実のように感じる心理の揺れ・振幅を図ったのであり、《無》へ誘導するプロセスの見えない図りごとである。


(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)


『銀河鉄道の夜』273。

2016-10-22 06:12:09 | 宮沢賢治

そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。


☆現れるものを転(ひっくりかえし)選んで推しはかる。
 審(正しいかどうかを明らかにし)進めていくことを吐く。
 図りごとの考えの記は、普く仁(博愛や同情の心)が現れる。