『花嫁』
具体的に何らかの物が描かれているのに、何であるかを明確に決定づけられない。
実際の作品を観たいと思っているが、カタログで見るメリット(?)が浮上することもあることを知った。
この作品を上下左右の観点に動かしてみると、見事なまでに同じバランス、酷似の動線が配置されていることに気づく。この感想を即、『花嫁』に結びつけることはできないが、花嫁というその期間だけの緊張感、精神の揺らぎを垣間見る思いがする。しかし、これは単に感情移入した結果の感想に過ぎない
何かが動く気配の構造ではあるけれど、始まりと終わりが欠如しているので、意味が霧消し、この絵の中に期待や躍進と言った前向きの生産性が四方の闇に流出してしまうのである。
故に、この『花嫁』と名付けられた作品のどこに『花嫁』たる所以があるのかを伺い知ることはできない。花嫁の暗示は皆無であるが、『花嫁』と名付けられたことで、鑑賞者はそのキメラを捜そうと作品を凝視する。
(作品)と(鑑賞者の眼差し)の間に流れる空漠、問いと応えの散逸、《無》から《有》を見逃すまいとする気迫、《有》から《無》を悟る落胆、これらの交錯。
デュシャンの作品は、作品と鑑賞者のあいだの空気感にその内実がある。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
ふりかへって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまひほんたうにもうそのまゝ胸にも吊るされさうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまづいてゐるのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。
☆現れる自由な弐(二つ)の果(結末)は、照(あまねく光が当たる=平等)である。
教(神仏のおしえ)により懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)。
叙べる詞(言葉)には、照(あまねく光が当たる=平等)の念(思い)がある。
繕(なおすこと)を迫る緒(もろもろ)を、法(仏の教え)で覚る。
伝える照(あまねく光が当たる=平等)の考えが現れる文(文章)である。
いったい、いつまでも笑っていなくてはならないようなことがあるのかしら、あるとしたら、わたしたちの身にふりかかったこのばかげた不正だけだはないかしら。
☆それゆえ、なんとなれば、いつまでも復讐しているようなことがあるとしたら、わたしたちの事件の不快な誤りだけではないかしら。