続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

吊るし雛/七宝毬。

2016-11-01 07:10:36 | 市民講座

 七宝毬、三個目作成。
 黒・ピンク・グレーの地、講座で作っているものに合わせるには少し大きいので、この三個は一本飾りにし、もう一つ小さめなのを作ろうと思っている。

 今回は赤子を作っているけれど、可愛らしくするのには結構たいへん・・・。色を併せたりして試行錯誤、でも楽しい!

 眼精疲労の極み…辺りがボヤケルことしきり。それでも夢中!


デュシャン『太陽の中に徒弟を』

2016-11-01 06:24:28 | 美術ノート

 『太陽の中に徒弟を』

 「太陽の中の徒弟」ではなく、「太陽の中に徒弟を」である。
 空間・位置関係を示す《の》と《に》であるが、「太陽の中の徒弟」というのは太陽に包まれた状況下であり、「太陽の中に徒弟を」は、意思をもって太陽の中に徒弟を置いたという能動的な光景である。しかし、人は自然な状況下に生きているのであって、太陽の中に置くという自由意志は通用せず、あくまで心理的な《有るけれど、無い》情景にほかならない。

 五線譜の上に描かれた急坂を自転車で登っていく男は、「シーシュポスの神話」を思わせる。

 神の怒りを買い、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言いつけ通りに岩を運ぶが山頂に運び終えた瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても結局は同じ結果にしかならないのだった。カミュはここで皆いずれ死んで全ては水泡に帰すことを承知しているのも拘わらず、それでも生き続ける人間の姿を、そして人類全体の運命を描きだした。(ウィキペディアより引用)

 勾配のキツイ坂を自転車で登っていく、歩いているのではなく自転車である。ペダルを踏む足を停めれば、その瞬間下へずり落ちてしまうことは必至である。
 デュシャンの自画像とも思えるこの作品には、静謐な無常を感じざるを得ない。


(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより) 


『銀河鉄道の夜』283。

2016-11-01 06:07:22 | 宮沢賢治

「あ、あすこ石炭袋だよ。空の孔だよ。」カンパネルラが少しそっちを避けるやうにしながあ天の川のひととこを指さしました。


☆釈(意味を明らかにする)譚(物語)であり、他意がある。
 講(はなし)は秘(人に見せないように隠している)
 転(ひっくりかえる)千(たくさん)の詞(ことば)が現れる。