続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

布地大好き。

2016-11-10 07:22:33 | 日常

 (困っちゃうな)っていうくらい布好きである。
 昨日は横浜の産貿ホールまでバーゲンにMさんと待ち合わせて行ってきた。年に一度、このバーゲンの時にだけ会う約束を二人とも律義に守っている。
 今は亡き友人を介しての知人だけれど、その友人が健在だったころからの慣習(?)のバーゲンでのお買い物。

 横須賀で生地を売る店がない、というか無くなってしまった。小物や趣味の生地売り場は有るけれど、洋裁用となると鎌倉まで行かなければという状況である。

「生地なんかもう要らないわね、捨ててるもの…。」友人たちと交わされるこのセリフ。わたしも大きく肯きながら、それでも生地への恋慕が捨てられない。

 そんなわけで昨日も買ってまいりました、色とりどりの半端な生地。
(こんなもの買ってどうするのよ)

 当てもなく購入・・・バカなわたし…でもいいの、大好きだから。


デュシャン『泉』

2016-11-10 06:34:45 | 美術ノート

 『泉』

 小便器である。
 排泄の処理を衆目に曝すことは恥辱の極みであって秘密裏の行為である。

 しかし、ここにあえて提示された小便器(便器)は、鑑賞者の眼を背けさせるものであって鑑賞に結びつかない。みんなと一緒に肩を並べて眺めるようなものではないという強い拒否感が先行したに違いない。

 排泄行為なしに生きている人は皆無であり、排泄が滞ることは死を意味すると言って過言ではない。食べることの必須は、出すことの必須条件をも伴う。
 これは理の当然であるが、小便器(便器)を目の前に突き出すことは品格に欠けるという怒りに似た反発もまた当然なことである。

 デュシャンはこのレディメイドを提出した段階ですでに嫌悪のために排除されることは計算の内だったのではないか。そこまでの心理の経由がデュシャンの目算である。

 生命維持の根源に触れる『泉』という作品は、審美眼を冒涜するかの電撃的な刺激を有した審美眼への挑戦である。英知を持った人類の生存理由の要であり、鑑賞における美的感動など論外なのである。《生きるということの最大の課題でさえある》


(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)


『銀河鉄道の夜』292。

2016-11-10 06:21:05 | 宮沢賢治

そして誰にも聞こえないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。


☆推しはかる文には、双(二つ)の我意がある。
 常に推しはかることに力(力を尽くすこと)が教(神仏のおしえ)である。
 教(神仏のおしえ)を隠す講(はなし)を究(つきつめること)を、逸(隠した)誌(書き記したもの)である。


『城』2477。

2016-11-10 06:08:07 | カフカ覚書

これまでの話は、ここの村の人たちの無思慮な小心さ、隣人の不幸をよろこぶ意地悪さ、当てにならない友情など、要するに、どこの土地でもお目にかかれることにすぎません。もちろん、お父さんのほうにも、いわば肝っ玉が小さすぎた面がありますがね。


☆今までの話は、人々の無思慮な放心、隣人を傷つける友人としての当てにならない友情などごくありがちなものです。あなたの父(先祖)にもそういう面がおありですね。