意識朦朧…混濁。身体の節々は油切れの疲弊した機械。
全く情けない…泣くに泣けない野原の枯れ草状態、かなりひどい風邪の症状に参っている。
(こういうこともあるか)という楽観と、このままXディに直行かという不安の交錯。
ただひたすら横になっている、(無為を愉しもう)なんて言う余裕はない。TVの画面さえ辛くて薄眼で見ているかと思うと、眠り込んでる。
今朝は少し上向いてブログを書く意欲が出ただけでも上々。治ることを信じてもいいかもしれない。
という状態の中で、Xさんの訃報を聞いた。明るく笑う声が思い出され、淋しい。
近所の方とお線香をあげに伺った。別れ際、我言うともなく
「わたしの時もお線香一本でいいからね」
「ほんとうにね」
「・・・」
今年の幕開けは淋しく痛いものになってしまったけど、気力回復を願っている。
『アルンハイムの地所』(写真左)
手前の籠に卵が三ケ、山は岩石の不毛地帯、山頂は鷲の頭を模した形状でありあたかもその羽根を大きく広げたようなイメージになっている。
蒼天、三日月と星が出ている。
鳥状の形態をした山であっても卵を産むことはない。しかしこの関連性、あたかもあり得るような錯覚を抱かせる不条理に(かもしれない)という感覚が過る。
三日月が南中する時刻は昼少し過ぎくらいではないか、とすれば空はまだ明るく星は見えない。空が明るければ、三日月も在るが見えない。
一見、在るかもしれないと思われる光景である。
しかし、全体的にまとまってはいるが、一つ一つの関連性がつながりを見せず、よく見ていくとバラバラであることが判明する。
これは、ルドルフ・アルンハイムのゲシュタルト心理学における世界/解釈ではないか。
世界の混沌、あり得ない不条理、そして崩壊、マグリットはそこに卵が象徴する《過去と未来》を置いたのではないか。(これは抱えていた問いの答えでもある)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「鹿の黄いろな横つ腹なんぞに、二三発お見舞まうしたら、ずゐぶん痛快だらうねえ。くるくるまはつて、それからどたつと倒れるだらうねえ。」
☆化(形、性質を変えて別のものになる)講(はなし)である。
応えは複(二つ)あり、字に算(見当をつけ)撥(調整する)と、現れる。
部(区分けする)Two(二つ)の解は、等(平等)である。
事実、あの人たちは、どういうことが問題になっているのかを正確には知らなかったのです。死者が紙きれを手にいっぱいもって縉紳館へ帰ってきたということだけのことなのです。
☆争いがどういうことなのか知らないのです。
小舟が国(団体)の身分証明書をもってみんなの食(死の入口)に帰ってきたのです。