なにかの講座で机を並べた縁での知遇。
「わたしたちって気が合うわね、これきりお別れは淋しいわ」との発言で始まった月イチの会食。
ハイランド・粟田・長沢・大矢部の四人、地域は異なるが至近ではある。その距離の真ん中に位置する「夢庵」でのおしゃべり。
他愛もないことを語り合う・・・ただそれだけ。
第一回は3.11の震災の日、大きな衝撃の後、手を振り合って再会を約束。それが途切れることなく今日まで続いている。最終週の金曜日を合言葉に集う。
なんとなくストレスがないわけでもない。けれど、そういう自分を否定し自身を戒めている。
四人の高齢者がひたすら日常を語る。淡々と、時にはため息交じりに・・・時に笑い合うという関係である。
今日は日赤の赤い羽根募金の打ち合わせ日でもある。毎年これをクリアーして夏を迎える。
繰り返される日常・・・生きて歩けて、十分である。
不満より、幸福をイメージしていきたい。風に逆らうことなく…。
『夕べの徴』
夕べ…やがて暗くなり、全ての景が見えなくなる予兆ということだろうか。見えないことは《無》に等しい、逆に言えば《無》は見えるものを隠しているということになる。その隠している景を暗に見せているということなのか。
夜(漆黒/無)に移行していく景・・・夜は見えないが(隠しているだけであって)、不在ではなく厳然と存在するものを暗黒で覆うだけである。
夜(漆黒)は描けないが、《徴》はまだ見える範疇である。
これら条件を踏まえた『夕べの徴』の意味はどこにあるのだろう。
山の峰は限りなく黒に近く、山間から覗く空は落陽の残光である。
手前に描かれた波板の上のフレームなどとは把握不能の巨大な距離間があるが、手前の景がなぜこの位置に存在しているのかは極めて不自然であり、背景(山々)との連鎖すべき空気感が皆無である。
手前の景に関していえば、全てが微妙に傾斜しており、存在の根拠を逸している。つまり移動(落下)の予知が直感できるのである。
存在の不確定、確かに見えているが、時を待たずして落下・壊滅を免れない設定・構築である。重力下にある物体の静止を守る根拠がない。
この心理の揺れを甘受できないし、この不条理な光景を正視できない。
この作品を目にしていると静かに沈み込んでいく不安を覚える。まさに夜(無)への移行を怖れる前兆がある。
(写真は『マグリット』西村書店より)
「あいつは昨日、木炭のそりを押して行った。
昨日はサク・ジツと読んで、朔、実。
木炭はボク・タンと読んで、墨、譚。
押してがオウと読んで、往。
行ったはコウと読んで、講。
☆朔(月の第一日)の実(内容)は、墨(黒/見えない)。
譚(物語)は往(人が死ぬ)講(話)である。
村の近くでは、どの車道も一本になってしまいますが、ここでは、あらゆる車が気ちがいじみたスピードを出しています。お城の近くでは、まだいくらかスピードがおそいのですけれどね。
☆村(来世の少し手前)の近くでは(死への)進入路は一本道になっていますが、来世ではあらゆる車が突進します。城(本当の死)の近くでは、まだ先祖の死は順当な速度です。