『美しい虜』
キャンバスに描かれた絵は見えている景色を正確につなぎ、あたかも連続している風である。
キャンバスはキャンバスの向こうの景色を《隠している》が《見せてもいる》。真偽は定かではないが、多分そうかも知れないと納得させ、その連続性を壊していない。傍らの樹木も景色の一部を隠しているが、場面は容易につながることを確信する。何故なら人の手の加わらない自然だからである。
キャンバスに不審が残るのは人為的工作であるからで、異なる風景を隠蔽しているのではないかという疑惑を消し去れない。(もっとも作品そのものが人為的産物であるが)
《そうかもしれないが、そうでないかもしれない》、正否を決定できない、まことしやかな幻惑に決定的な答えは出ない。
この作品に対する集中は奇妙な一点に留まってしまう。
海を臨む大きな景色や大樹の存在感、にもかかわらず部分的な疑惑に終始し、そこから抜け出せない焦り。
この作品には、この作品に仕掛けられた《まことしやかな拘束》に何時まで経っても答えを見いだせない(有無の内包)がある。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
山男は口惜しがつてばtばたしようとしましたが、もうたゞ一箱の小さな六神丸ですからどうにもしかたがありませんでした。
☆太陽の談(話)は公(一部に偏らない)責(為すべき務め)がある。
逸(隠れている)総ての章は、禄(幸)の真(まこと)の願いである。
また、わたしたちが当局にむかって個人的な問題も解決しなくてはならぬと命令しようとしているのではないかという印象、あるいは、こちらがまだ打つ手が残っていると考えつくよりも先に当局は最善の手を打つことができるし、事実もうとっくにうってしまっているということをわたしたちが疑っているのではないかという印象、この計画がそういう印象をあたえかえないということも、十分わかっていました。
☆また当局は、個人的な問題も解決すべきで、最前の命令にも適し、それどころか、とっくの昔に命じていたらしい考えを持っていることへの疑いについても、ここでは解決できるかもしれません。