ニガウリ(ゴーヤ)なんかは手入れなしで水さえ切らさなければグングン育ち実もよく生る。
でも、通りかかった人から「あらっ、これなにかしら? これがあの何々なのね」というコメントが聞けたら、ちょっと嬉しい。
だから、パッションフルーツのような、おしゃれな物を植えたいと毎年考えている。にもかかわらず、ゴーヤ(はやと瓜なども)なんて言う野性的な物ばかり植えているのは、やっぱり実利的だから・・・。
「パッションフルーツを二苗植えたのよ、でも葉ばかり成長して、付いた実は一個。その実も暮れに採ったら中はスカスカ…失敗だったのね」と、Sさん。
(やっぱり、ゴーヤで良かったのかな)
お洒落に縁のない野暮なわたし、ゴーヤはわたしにお似合いかもしれない。
『野の鍵』
真正面から窓外を臨む景色である。しかし、窓ガラスは破損し室内の床に落下している。破片には見えていた景色そのものの投影が固定し付着しているかに見える。
もちろん有り得ない現象であり、精神的な余韻ともいうべき時間のズレを仮想している。
ガラスは透明であり、その向こうをそのままに見ることを可能にするが、ガラス自体に見える風景が固定(投影)されることはない。変化をきたさない媒介物である。窓ガラスを賭して見えた風景が窓ガラスに留まる(付着する)ことなど決してない現象である。
それにも関わらず、落下し散在している破片に見えたその通りの景色を描く作為に、どこかで共感し、破片をつなぎ合わせれば見えた景色に修復されるような錯覚を抱いてしまう。
現実とイメージには差異があり、経験上の情報の集積がイメージを柔軟かつ非現実的なものへと誘引する傾向がないとは言えない。つまり物理的には許されないことが精神界ではイメージをもって許容・肯定されるということである。
現実(自然/野)とイメージの構築の相違、その答え(鍵)がここにある。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
それから支那人の大きな手が、いきなり山男の眼の前にでてきたとおもふと、山男はふらふらと高いところにのぼり、ももなく荷物のあの紙箱の間におろされました。
☆詞を納める図りごとの題(テーマ)は、太陽の談(話)として現れる。
全ての太陽の談(話)は、考えに化(教え導く)仏があり、死への想いが現れる。
こうして、わたしは、計画を中止せず、バルナバスの野心も、薄らぐどころではありませんでした。この準備期間中にバルナバスは、非常に思いあがってしまって、靴屋の仕事などいずれはお城の使用人になる自分にはけがらわしすぎると考えました。
☆わたしも止めることなくバルナバスの野心もそのままでした。この準備期間中に、バルナバスは高揚し、来るべき未来には秘書局を予想し、不正を見つけようと考えました。