八月も後半になると、学校から出されている宿題が心配になってくる。
孫も自由課題であるらしいけど、何か提出しなければということで、母親の方が子供をせっついていた。
「あと15日しかないんだからね、読書感想文でも絵でも自由研究でも・・・何にするの!お母さんはお仕事だから急に言っても見てあげられないよ」と檄を飛ばす。
「じゃあ、クワガタの絵でも描きなさい。」と、持参したクワガタを目の前に置き「お母さんが描いてみましょう」なんて真剣に描き出した。
思い出すのは父親である息子の夏休み。夏休みも残り数日に押し迫ったある日、近所の同級生と一つ机で勉強。
よく見ると、その子供のノートには答えが薄く鉛筆で書いてある。
親泣かせの夏休みの学習…かくいう息子もいい加減だったと思う。
長男など感想文を褒められたが、わたしが口伝えで書かせたもの。
そんな話をしたら、元小学校の先生、「わたしなんか生徒の自由研究の中から息子に向いているものを選んでパクったわよ」と吐露。
みんな苦労している夏休みの宿題、今日あたり頑張っているかな?
わたし?
「わかりませんでした」の一行で終えた夏休みもあったらしい。記憶にないけど亡母の後述。
『目』
正方形の黒い画面の中央に円形の彩色エリアがあり、顔の一部である目が描かれている。
まさに『目』であり、こちらを見透かしているような眼差しを感じる。そして同様にこちらも彼女の目を見ている。
見るということは対峙であり、同じ関係性にある。しかし、ここでは画像(イメージ)としての彼女の目であり、実在の眼ではない。
にもかかわらず、《見る・見られている》という関係を直感するのは、目が手や足などの機能とは異なり相手との関係を強く呼び覚ますものだからである。
あらゆる情報は、眼から入り、脳を経由して眼から出ていく。
言語は残存する場合があるが、視覚におけるイメージは残像する記憶はあるが、ほとんどは消失を免れない。
『目』における恐れは、見えないものまで見透かされているのではないかという憶測にある。
目にはそれだけの威力があるので、たとえ描かれたイメージとしての目であっても脳内においての錯視を軽んじることはできない。描かれた目に対し、(彼女はわたしを見ていない)と断言することは難しい。
『目』には見る人に呼応する威力が潜在しているということである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
パソコンをつけると、問題が発生しているらしく高い頻度で(Internet exporerは動作を停止しました)と出る。すぐ解決してくれるらしく、程なくパソコンは動き出すけれど、作業の途中でも問題は発生し、時に停止を余儀なくされる。
いったい何の問題が発生したのか、こちらは首を傾げるばかりだけれど、コンピューターに精通しているわけではないので(こんなもんかな)と思っている。
けれど、こんな問題を差し引いてもコンピューターの恩恵には十分感謝している。言いたいことがこんなに便利かつ迅速に発信できるなんて、若い頃には想像したことすら無かった。
パソコンは唯一無二の友達…問題が発生しても生涯仲よくお付き合い願いたい。
(たうとう牢におれははひつた。それでもやつぱり、お日さまは外で照つてゐる)山男はひとりでこんなことを呟やいて無理にかなしいのをごまかさうとしあした。するとこんどは、急にもつとくらくなりました。
☆弄(思いのままにする)実(まこと)の我意の章(文章)である。
太陽の談(話)の源は夢(空想)で理(取りさばく)救いである。
と言いますのは、これは容易に予測できたことですが、バルナバスがお城へ出かける最初の日とともに、喜びも思いあがりも、吹っとんでしまいましょうから。
☆わたしは、この死に近い場所を喜んで与えました。いかなる死の日にも最初の日の喜びや高揚は等しく過ぎ去り、軽やかに先立っていくのです。