『雲のある自画像』
萬鉄五郎という画家を初めて知ったが、卓越した技巧は本質を衝いている。
『雲のある自画像』などは、顔を正面から描いているにもかかわらず、肩(身体)の線を耳の辺りから落としている。
首を描かないことで顔を前面に出し、俯いているかの印象である。肩を極端に下げ、肉体の存在を打ち消しているので、まるで幽霊のような希薄さである。
この差異ある描写が奇妙かつ不思議な情念を漂わせ、消極的な薄い身体が真正面を見据えた眼差しを隠している。
心象・・・身体(白いシャツ)部分を被い顔だけを見ると、実に精悍で神経質そうな繊細な表情が浮かび上がる。額から上を大きく描き、あたかも上からの描写のように惑わせ微妙にバランスを取っているので、全体から見ると脆弱な印象を鑑賞者に与えているが、実は非常に鋭利で不気味なまでの観察眼でこちらを見ている。
頭上の雲は、その都度変化していく生命体としての現象を、身体から切り離して具現化したものだと思う。バックを無(黒)にせざるを得なかった心理的自画像である。
(神奈川県立近代美術館/葉山『萬鉄五郎』展より)
『前兆』
岩窟から覗き見た山稜は、鷲が羽を広げ今しも飛び立とうとしている形態に酷似している。近づくことを決して許さないような険し勾配であり、人為の挑戦を拒否しているかに見えるほどの神秘である。
前兆とは何かが起こる前触れが、この画の中にあるという。
何かが起こる前兆・・・わたしたちは目の前にある物を厳然と知覚するだけであるが、経験はその情報量により《錯視》という現象を呼び覚ますことがある。
山稜は山稜として厳然と存在しているに過ぎないが、そこに鷲の頭部並びに飛翔のイメージを重複してみることが可能である。
流雲に、何かの形態を感じることは誰しもが経験することであるが、その感覚に類したイメージの重複である錯視を予感する。
この作品を見て、単に(山の峰)と感じる前に《鷲の頭部、もしくは飛翔の前兆》と確信する人の方が圧倒的に多いに違いない。もちろんそう見えるように描いているからであるが、山(無機質)が鷲(有機質/生命)の変化するとは誰も信じない。
『前兆』とは、知覚する対象をほかのものに置換して感じうる錯視の現象を指しており、イメージという正体の出現の前兆である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録)
すると外の支那人は、やつと胸をなでおろしたらしく、ほおといふ息の声も、ぽんぽんと足を叩いてゐる音も聞こえました。
☆我意である詞(言葉)を納める図りごとの教(神仏のおしえ)は、即ち照(あまねく光が当たる=平等)である。
即ち講(話)は隠れた問いである。
とくに理解できないのは、少年のころはみなが匙を投げだすほど勇敢なところがあったのですが、大人になったいま、なぜその勇敢さをお城ですっかり失ってしまったかということです。
☆とくに理解できないのは、わたしたちみんなが絶望していたのに勇気があり元気だったのに、なぜ来世では失われてしまったのかということです