JR北鎌倉駅に集合、建長寺から鶴岡八幡宮~JR鎌倉駅へと、軽めの半日コース。
それでもランチをとり、お茶を飲んでの長いおしゃべり、帰宅はすでに夕刻五時近く。
あちこち余分に歩き回って一万歩越え。
雨最寄りの天気、涼しくて歩くには最適。六月にエコノミー症候群で歩けなくなって以来の『ぐるり』への参加。
あの時のことを思えば、歩けた嬉しさもひとしお。メンバーの皆様には感謝・深謝。
こんな情けないわたしを仲間に入れて下さって本当にありがとう。続けられる限りは何とか頑張りますので、見捨てないでくださいね。
『空気の平原』
空気とは地球を被う気体のことで無色透明であり、それを認識することはない。しかし生物の存在にとっては欠くべからざる元素を含んでおり、人もまたその空気に依存して生命を維持するものである。
岩だらけの荒地に立つ巨大な一本の枝葉…現実に考え得る生育状態には決して見ることのない光景である。
あらゆるデーターを参照にしても奇異であり、植物の成り立ち・構造に著しく外れる一枚の枝葉を鑑賞者は認可できない。しかし、その存在を打ち出した画に(空気の平原)を提示しているという主張である。
空気は流体であり、見える物体の形に寄り添う。気流により変幻自在に見える雲を発生させるが、空気自体の形を視覚に捉えることは出来ない。
故に《空気の平原》はあり得ず、地球の周囲を巡る空気に関していえば、包むという状態であり、平原には当たらない。
ではなぜ『空気の平原』なのか。
巨大化した一枚の枝葉が水のない荒地に生育する不条理と同値であるという「空気の平原」である。『空気の平原』はイメージの境界線であり、虚実の混沌を受容できるか否かの問いであり答えなのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
それから支那人は、荷物をしよつたらしく、薬の紙箱は、互にがたがたぶつかりました。
「おい、誰だい。さつきおれにものを云ひかけたのは。」
☆詞(言葉)を納める図りごとは、化(教え導くことの)仏の役(つとめ)である。
詞(言葉)は、双(二つ)の語(原語)を推しはかって運(めぐらせている)。
もちろん、来る日も来る日もあんなところで当てもなく立ってまぅている、しかも、状況が変るというなんの見込みもないーこういうことでは、人間は、弱くなり、疑いぶかくなり、ついにはああいうふうに絶望して立っているよりほかに能がなくなってしまうでしょう。
☆もちろん来る日も来る日も意気阻喪して立って待っている、しかも見込みも変化もなく、常に立っているのです。弱気になり疑わしくなり、ついには絶望して立っている、それどころか無能になってしまうのです。