『人間嫌いたち』
擬人化されたカーテンの林立。
低い地平線の位置から推して、相当に高く伸びたカーテンであり、ほとんど巨人化している。それらがずっと地平線の彼方まで散在、続行している景である。
たった一本だけ樹が見えるのは、心の片隅にある自然・安らぎの暗示かもしれない。
高く張り巡らせたバリケードのようにさえ見えるカーテンは、警戒と孤独を象徴しているが、完全に閉じられているわけではない。タッセルに括られたカーテンは開いている。
閉じてはいるが開いており、十分外部を見渡せる隙間は用意されている。
《恐々と覗く》、人間嫌いの大きな特徴である。相手(対象者/世界)から見られるのは拒否したいが、相手(対象者/世界)を観察したい好奇心はある。
人間嫌いのわたしは、果たして作品の前の鑑賞者/世界に紛れ、向こうを見ているのだろうか。それとも地平線の彼方にいて鑑賞者/世界を覗き見ているのだろうか。
どちらにしても人間嫌いのわたしには、このカーテン(遮蔽)は、必要欠くべからざるものである。
天空まで高く延びたカーテンは異世界との境界であり、遮蔽であり、行き来可能な通風孔である。人間嫌いの潜在的なカーテンは、取り去っても取り去っても新しく現出し、わたしを包囲する。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「うん、誰だつて章魚のきらひな人はない。あれお嫌ひなくらゐなら、どうせろくなやつぢやないぜ。」
☆推しはかる照(あまねく光が当たる=平等)の語(言葉)を、図りごとに兼ねている。
けれども、バルナバスにすれば、あの子が話してくれたところでは、出入りを許された部屋にいるあの眉唾物の役人たちですらどれほど大きな権力と知識をもっているかがはっきりわかっているつもりでいたらしいのです。
☆けれどもバルナバスがわたしに語ったところでは、大きな権力と自身の知識は、はっきり分かっているらしいのです。正しく問う価値のある役人たちがいることを信じている。