Ⅱ-4-p1 地下のデイジー
地下のデイジーと名付けられた作品、《地下の》という副詞があるので、地下を想像するが、見えているわけではない。
《有るかもしれないが、無いかもしれない》という秘密を含有している。思い描くしかない領域への展望はピリオドを持たない。限りなく深くて遠く時間は無限であるかもしれないし、存外、至近であるかもしれない。つまり伸縮を可能にする。
見えているのは部分だという認識、現在見えている現象は連鎖の果てでさえある。
『地下のデイジー』の不可視な領域は、想像するしかない。
『地下のデイジー』は、不可視な空間への挑戦であり、現在という空間の持つ歴史的な厚みとでもいうべき過去からの連鎖への反問である。
(写真は神奈川県立近代美術館〔若林奮『飛葉と振動』展/図録より〕
あの永久の海蒼がのぞきでてゐる
それから新鮮なそらの海鼠の匂
☆永(いつまでも続く事)を究める界(世界)の総ての真(まこと)を詮(あきらかにするのは)、訴の仁王(仏法の守護神)である。
役人たちは、酒場か自分の部屋で、できれば食事をしながらか、眠るまえにベットのなかで、あるいは、朝疲れていて起きることができz、もうしばらくベッドに寝そべっていたいとおもようなときに仕事を片づけたいとのぞんでいるくらいなのだから。
☆彼らは酒場(死の入口付近)か自身の限界で、もしかすると試論なのか眠る前の祈りの中、身元不明の死体公示場あるいは悲嘆のために立ち上がることができず、さらに願い続けようと思う。