この細長い板にある刻みが変則なのか、規則性のある永続なのかは、推測しそれを信じることによってのみ成立し得るものである。
しかし、板が接続なしに永遠に続いていくことは少なくとも物理的には考えられず、精神界においてのみ信じられる構造ではないか。
当然精神界の表象であると言われればそれまでだが、鑑賞者は現今までに集積されたデーターによってのみしか感知できない。観念をことごとく否定し描かれた光景を肯定的に受け入れるという心理動向には、ある種の亀裂が生じてしまう。
描かれた一つ一つは確かに見覚えのある知っているものであり、理解は可能であるが、質の置換、自然法則(重力)の否定、存在における不安(危機感)、闇(漆黒)の中の白い顔、根のない黒い樹(ポール)・枝葉、・・・などの異様さは非現実と言わざるを得ない。第一、顔自体に生の証がない。
これら、生(現実)に背くものを総称して『天才の顔』と呼ぶのだろうか。
『天才の顔』は、非現実的な空想界に位置するものであり、混沌(現実)の上に、危機感を孕んで鎮座し、人の思惑に浮遊するものなのかもしれない。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
それどころでない おれのステツキは
いつたいどこへ行つたのだ
上着もいつかなくなつてゐる
チヨツキはたつたいま消えて行つた
恐るべくかなしむべき真空溶媒は
こんどはおれに働きだした
まるで熊の胃袋のなかだ
☆光の照(あまねく光が当たる=平等)に惹かれる。
照(あまねく光がある=平等)の考えは教(神仏のおしえ)である。
神の句(言葉)は陽(光)を倍(多く)する。
同(平等)の幽(死者の世界)の意(思い)は、他意である。
廊下は、まっすぐ立って歩くのにぎりぎりの高さだった。廊下の両側には、客室のドアがほとんど切れ目なしにならんでいた。
☆通路は真っ直ぐに歩くのにぴったりの狭さだった。他方には先祖の荒涼とした旋回があり、通風はあるようだった。