喜劇の精神は人のみに宿る感情である。
この人型(擬人化された紙片のようなもの)のいる状況に『喜劇の精神』があるという。見えない精神を具象化し垣間見せた作品を前に考え込んでしまう。
喜劇とは何だったかと…。
立ち姿というより、何気ないが踏ん張っているポーズである。下り坂であるにもかかわらず、上半身は直立している。大変さを見せない、水面下で足を忙しく掻く水鳥のような平静さである。
足は下方に向かっているのに顔は上方に向き、行動と思考が相反している。すなわち《葛藤》があり、常に上昇志向に身を挺している。
何かを求めるための眼差しがそこに潜んでいる、隠しているが秘めているという風である。
薄っぺらな身体、坂は身体的な年齢、死へと向かう道筋かもしれない。しかし思考ばかりはそれに逆らっている。
儚い抵抗・・・滑稽に映る現象。すべては幻であるという前提に立てば、喜劇であるほかないではないか。わたくしの告白であり、自画像である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
光沢消しだ
馬も上等のハツクニー
このひとはかすかにうなづき
それからじぶんといふ小さな荷物を
載つけるといふ気軽なふうで
馬車にのぼつてこしかける
(わづかの光の交錯だ)
☆恒(常)に択(良し悪しを見てより出す)章(文章)である。
場(場所・空間)は常に悼(死を悲しむ)章(文章)である。
化(教え導く)仏は済(救い)が基である。
経(常に変わらない)魔の赦(罪や過ちを許す)講(話)である。
考(思いめぐらす)策(図りごと)である。
Kが当てもなくあたりを見まわしていると、遠くの廊下のまがり角のところにフリーダの姿が見えた。フリーダは、Kだということがわからないような様子をして、じっとこちらを見つめているだけだった。
☆Kが何気なくあちらを見ているとフリーダ(平和)がはるか遠くに見えた。フリーダは彼に気づかないようだった。