続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

「青い槍の葉」①(『グランド電柱』より)

2018-07-06 07:18:17 | 宮沢賢治

     青い槍の葉
       (mental sketch modified)

    (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
  雲は来るくる南の地平
  そらのエレキを寄せてくる
  鳥はなく啼く青木のほずゑ
  くもにやなぎのくわくこどり
    (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
  雲がちぎれて日ざしが降れば


☆章(文章)には、双(二つ)の要(かなめ)がある。

 運(めぐりあわせる)句(言葉)
 難しい質(内容)を蔽(見えないように隠している)
 記す帖(ノート)の体(ありさま)は照(あまねく光が当たる=平等)を黙って運(めぐらせている)化(教え導くこと)の講(話)である。


🈞マグリット『ことばの用法』②

2018-07-06 06:54:44 | 美術ノート

 言葉とは何であったか。
 言葉とは、対象者に伝えるツールであり、用法は《伝達》に限られている。

 しかし、任意の言葉(単語)を放り投げて見る。全く意図せずランダムにおくと、脈絡がないので、そこにはに意味を見いだせない。単語には意味があり、それをイメージできるが、無関係に見える単語を接近させても混乱(混沌)するしかない。

 ただ言葉を知っているという自覚は、何としても関連を結び付け意味を見出そうと画策する。(言葉があれば意味があるだろう)という強い信念めいたものが働くのは、むしろ自然だとさえ言える。

 そしてそれが徒労だと知るのがこの作品である。
 単語(意味)を重ねれば、より詳細な意味に行き着くというのは妄想であり、意味の分散は意味を解放するのではなく、意味を混乱させ(ことば)は言葉としての用法を失うのである。
『ことばの用法』には、伝達~伝達の霧消(非伝達)の範囲があり、作品は負の領域があることの提示(証明)だと思う。


(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)


『小岩井農場』53

2018-07-06 06:46:20 | 宮沢賢治

  けれどもあの調子はづれのセレナーデが
  風やときどきぱつとたつ雪と
  どんなによくつりあつてゐたことか
  それは雪の日のアイスクリームとおなじ
   (もつともそれなら暖炉もまつ赤だらうし
    muscovite少しもそつぽに灼けるだらうし
    おれたちには見られないぜい択だ)


☆兆(きざす)詞(言葉)を普く接(つなぐ)。
 説(はなし)を化(形、性質を変えて別のものになる)の路(すじみち)を析(分けることで事柄を明らかにし)、釈(意味を解き明かし)択(良し悪しを見てより出す)。


『城』2980。

2018-07-06 06:28:14 | カフカ覚書

が大胆不敵にも教室の窓のそばへ押しかけてきたというだけのことで、ぼくは、フリーダ、きみを失い〈結婚式なんかあるものですか〉という挨拶を聞かされなくてはならないのかい。


☆それゆえ、わたし達は強くなければフリーダ(平和/自由)を失い、〈万歳なんてあるもんですか〉という挨拶を聞かされるのかい。