祈りの光景である。
飛んで行くことはないが、常に落下の危機(死)を孕んでいる。
今日、わたしはここにいるが、明日、一寸先は分からない。今、この状態が保たれていることは奇跡である。正しく今在る奇跡、さかのぼれば誕生の奇跡だと言い換えてもいい。
隕石ならば地を割り山の稜線に立つことはなく、どこかの山の噴火で飛ばされてきたのかもしれないが、その是非、物理的な現象は論外である。
なぜならば、精神界の光景に物理的な根拠は不要だからである。現実に在り、見えるものの光景に被せた世界こそが真実なのである。
わたくしという存在に対峙するもの、わたくしそのものを写すもの、決して触れることの出来ない《わたくし》である。
マグリットは自分自身でさえも触れることのできない神秘の自画像を描きあげたのだと思う。
開けようとすれば、この調和は壊れるしかない『ガラスの鍵』である。
(写真は国立新美術館『マグリッㇳ』展/図録より)
象はのそのそ鍛冶場へ行つて、ぺたんと肢を折つて座り、ふいごの代りに半日炭を吹いたのだ。
☆照(あまねく光が当たる=平等)の譚(話)は、字で常に考えて視(気を付けて見る)説(物語)である。
座(その場の雰囲気)で他意の判(可否を定める)。
化(教え導くこと)の譚(話)を推しはかる。
それに、ビュルゲルの申し出にほとんどこころをう動かされなかった。そんなものは、暇つぶしのお道楽だろう。
☆ビュルゲルの申し出には感銘を受けなかった。彼はあらゆる点で有無を言わせない(独裁的だったからである)。