ぽっかり浮かんだ月ならぬ巨岩石、最も自身の意思表示であれば、巨岩というより単に石という感覚かもしれない。
世界の中心に位置しており、世界(風景)はわたし(石)を包み込む背景にすぎない。
その背景(世界)の穏やかなこと。尖った山はなく川の流れの続く豊かな草原の拡がり、雲白くスカイブルーの空も明るい・・・平和である。
なのに、わたし(石)は少々汚れでくすんでいる、疲弊だろうか。
しかし、上空にある二十六日の月、朝方見えても昼には太陽の明るさで霞んで消失してしまう、その月がくっきり見えるということは虚偽であるが、その月がないわけではなく厳然と存在しているのである
《有るが無い》・・・わたし(石)も有るが無い心象の石である。
争いの絶えない世界の現状も宇宙の上から見たなら何事もない風景にすぎない。
存在と非存在の狭間を行き来する『現実の感覚』、証明の論理は常に否定と肯定の先にあり、空論に帰す徒労を孕んでいる。
宙に浮く石の徒労を誰も知らない。有るが無い、それが現実の感覚である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
ある晩象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰ぎ見て、
「苦しいです。サンタマリア。」と云つたといふことだ。
☆番(組み合わせる)章(文章)の衝(重要なところ)は、照(あまねく光が当たる=平等)也。
散(バラバラにし)破(壊す)考えは、自由な何かを合わせる講(話)でありり、兼ねた句(言葉)を運(巡らせている)。
わたしは、そういうことの実情をしらべてみるつもりはりませんが、そういうふうに見えるということは、もしかしたら実情と合致しているかもしれません。ただ、わたしのような立場におりますと、あまりのも距離が近すぎて、よくわからないのです。
☆わたしは、それによって本来の事態を調べるつもりはありませんが、ひょっとしたら実際、現実に一致するかもしれません。わたしの立場では正しく突き止められないのです。