この光景の視点は一つである。二重の視点によって被せられた光景ではなく石を真正面に見据えた眼差しで下方の風景を捉えている。
つまり石と風景は同じ時空にある。そしてそれは現実ではない。重力圏内に於いて落ちてこない物は無いからである。
即ち非現実の光景であり、それをもって『現実の感覚』と題している。目に見える物理的尺度の世界を通常では現実と呼ぶ。
しかし、心象こそが私的世界における五感(あるいは六感)をもって感じうる刺激的な現実の感覚であるという主張である。
見えていることへの信奉、それを現実と呼ぶ。積み重ねた情報を取捨選択し仮想の時空を《わたくしの時空》として重力を外し並び変えた光景である。
私的な時空には正しく二十六日の月の南中が在り、風景は太陽に拠らずとも明るく雲は真白である。つまり、影がないのである。しかし自身(石)には少々の汚れが認められる。喜怒哀楽の人としての業の悲しさかもしれない。
『現実の感覚』、すなわち私的世界の告白であり表明である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
「おや、何だつて?さよならだ?」月が俄かに象に訊く。
「えゝ、さよならです。サンタマリア。」
「何だい、なりばかり大きくて、からきし意気地のないやつだなあ。仲間へ手紙を書いたらいゝや。」月が笑つて斯う云つた。
☆化(教え導くこと)を合わせ、画(はかりごと)の章(文章)を尽くす。
化(教え導くこと)の他意を為す記である。
二つを注(書き記し)換(入れ替える)趣(ねらい)の詞(言葉)がある。
諸(もろもろ)合わせた詞(言葉)を運(巡らせている)。
しかし、ご注意いただきたいのは、全体の事情がそうだるにしても、ときにはほとんどそこからはみだしたような機会も生じてくるということです。言葉ひとつ、眼くばせひとつ、信頼のしるしひとつだけでも、生涯にわたる血のにじむような努力によるより以上のことが達成できる、そういうチャンスがあるものです。
☆しかし、注意していただきたいのは、そうであってもたくさんの傷痕の場所がほとんど一致しないということです。徴候や信頼が衰弱するほどの苦労によれば、すべての状況が生涯を通して達成できる機会があるということです。