岩はわたくし(マグリット)であるのか、【主なる神はとこしえの岩である】(イザヤ書/第26章より)という岩なのか・・・ひとりひとりに神は宿るという意味なのだろうか。
この画の中の真実は窓外に見える水平線であり、視点は岩に対峙しているという構図である。従って、鑑賞者は岩と真正面から向きわねばならず、岩の中に入るほどに眼前は岩そのものである。
岩はわたくし、すべてのわたくしであるに違いない。
わたくし達は人為的構築物の中にいる、身動きできないほどに社会の制圧や約束の中で生きている。集積された知識・情報から逃れることは不可能とさえ思える。この束縛・重圧…。
光は窓から射しているので、部屋は密室に見えるが、前面(未来)は解放されている。
この解放に気づくこと・・・すなわち解放『記念日』である。
(写真は国立新美術館『マグリッㇳ』展/図録より)
童子はすぐに手紙をもつて、林の方へあるいて行つた。
赤衣の童子が、さうして山に着いたのは、ちやうどひるめしごろだつた。
☆道(方法)の詞(言葉)は趣(ねらい)の詞(言葉)であり、倫(人の行うべき道)である法(神仏の教え)の講(話)である。
釈(意味を明らかにする)意(考え)の道(方法)は、算(見当をつけ)惹(ひきつけること)である。
もちろん、秘書のなかには、熱心な人もおれば、あまり熱心でない人もいます。どこの土地だっておなじことです。が、仕事がきつすぎるといって苦情を言う秘書はひとりもいません。
☆もちろん、秘書の中には勤勉な人もそうでない人もいます。どこだぅて同じです。大きな緊張に嘆きを抱かない人は一人もいません。が、全然解放されていないというわけではありません。