『ヘーゲルの休日』
休日、すなわち静止を意味しているのかもしれない。
静止・・・あり得ない静止の図である。
コップ(コップは落下し、コップの中の水は流出)の動向は予見されるものであるが、今この瞬間には留まっている。コップの下(コップを支える)の雨傘は開いている。
バックが時代(時空)を特定しないベタであるということは、言うまでもなく推論の架空設定である。
コップの中の水の線は、7:3 陸と海の比率だろうか。空の3の占める水は雨傘(地球における陸地)にあるという意味かもしれない。
水と地球、地球における水は存在の根源であり、この絶妙なバランスが人類(生物)の存在を肯定する要である。
しかし、コップが倒れる可能性(危機)は常に想定内であり、不動ではない。これを雨傘の手(人類)によって支え続けていると同時に宇宙的論理に大きく支えられている。
地球における存在は、漠然と在るのではない。
常にその絶妙なバランスに助けられるという運動性のなかに許容されている。
雨傘の手(人類の叡智)は世界(存在論理)を動かせないが、存在の謎に触れ究明の余地を残している。
静止(コップと雨傘の関係)には常に力学的作用が働くという神秘を見逃すことができない。
ヘーゲルの客観的見地(休日)である。
(写真は国立新美術館『マグリッㇳ』展/図録より)
このとき山の象どもは、沙羅樹の下のくらがりで、碁などをやつてゐたのだが、額をあつめてこれを見た。
☆算(見当をつけ)章(文章)を査(調べ)羅(並べて)受ける。
化(形、性質をけて別のものになる)語(言葉)を学ぶと現れる。
公務ともあれば、愚痴をこぼさないものです。そういうのは、まったくわたしたちの流儀じゃありません。この点では、わたくしたちは、普段の時間と執務時間との区別なんかつけません。そういう区別は、わたしたちには無縁のものです。
☆先祖の愚行はわたしたちのやり方ではありません。これらの関係、習慣的な時間と現場不在の時間の区別は小舟にあります。こんな見分け方は関係ありません。