「人間は空にもいますよね?」というマグリットのコメント。
「いません!」
とんでもない合意の強要、否定されるべき事項に困惑するが、(そうかも知れない)という曖昧な疑惑の混じった肯定が生じる。(一応そういうことにしてもいいけど…)
縦横に遠近をもって空間を仕切っている群衆、それらの陰翳によって建物の形が立体視でき、距離間の把握にも関係性が見えてくる。
つまり、これら群衆は、大きな粒子(?)拡大された空気の粒子である。見たことがないから、何をもって具象化に至るかは不明であり男たちは単に一つの選択にすぎない。
空間という見えない領域への挑戦であり、存在への認識である。光を透過し、重さを持ち窒素と酸素を主成分とする気体、地球を包む下層部にある空気というものの把握である。
「人間は空にもいますよね?」
人間は死ぬと無窮の空へと還る、目を凝らして空を見ているマグリットの眼差し。
「確かに、人間は空にもいると思います!」賑やかで豊かな街だと、そう思います。
(写真は国立新美術館『マグリッㇳ』展/図より)
グララガア、グララアガア。その時ちやうど一時半、オツベルは皮の寝台の上でひるねのさかりで、烏の夢を見てゐたもんだ。
☆二つが逸(隠れている)。字の判(可否を定める)。
秘(人に見せないように隠す)を審(つまびらかにすること)が、題(テーマ)である。
照(あまねく光が当たる=平等)が迂(まわりくどく)謀(図りごと)が現れる。
つまり、夜間が陳情者との協議に不向きなのは、協議の公務としての性格を完全に維持することが困難である、あるいは、まったく不可能だからである、というのです。
☆つまり、死が関係者(死者たち)との審理に適しておらず、死は過酷であり、職務上の性質をもっての審理の存続など不可能なのです。