三人の男はそれぞれ頭上に月を抱いている。一つの時空に月は三つもないが、三人の男が一人の男の分解であれば納得がいく。
三日月は夕刻西空に見えるものであり、南中の昼には可視の範疇にはない。
したがって、頭上の三日月は物理界におけるものではなく、あくまで精神界におけるものである。
男たちはそれぞれ違う方角を見ている、月を支点に考えると、南・東南・西であり、月の運行に倣っている。
もちろん月が移動しているのではなく、地球の回転でそう見えるだけである。
地平線は動いている、しかし、決してそうは見えず、月が時間と共に移動しているとしか思えない。人(人の視野)は常に地平線に垂直に立っている。
しかし、月は東から西へ運行しているわけではなく、地球の自転に因している。地平線が水平に見えることも人の視界(高さ)の低さに因るもので本来は球体である。
目で見た事実を真実だと信じているが、男を三人に分解し月の運行を考え、地平線との関係性を問い質すならば、論外の事実に行き着く。
わたし達は、その神秘(関係性)を生きている。
(写真は国立新美術館『マグリッㇳ』展/図より)
おい、象のやつは小屋にゐるのか。居る?居る?居るのか?よし、戸をしめろ。戸をしめるんだよ。早く丸太を持つて来い。
☆照(あまねく光が当たる=平等)は衝(要)也。
図りごとは途(みちすじ)にある。
総ての衝(要)は照(あまねく光が当たる=平等)也。
図りごとの願いの他意は字(文字)に頼る
すくなくとも秘書たち(ほかでもない、職掌柄こういう事柄にたいして並はずれて鋭敏な感覚をもっている人たちなんでうが)は、そう言っています。しかし、われわれの仲間うちでよく話し合ったことですが、
☆すくなくとも秘書たち、もちろん使命のために行く人たち、先祖の特別敏感な人たちちはそう言っているのです。しかし、たとえ、我々が仲間で話し合ったとしても、