連続写真に対する意欲、つまり時間の流れである。
時間を平面(二次元)に留めることは可能か・・・眼は連続して撮られた対象物を追うが、過ぎ去った時間の追体験にすぎず、今を体感することは副次的に造られたものの中には存在しない。
『汽車の中の悲しめる青年』は一見、過去から現在・未来へ移行しているような膨らみを呈しているが、単にそう理解しようとする思惑が働くだけである。
疑似空間に時空の流れ(ムービー)は再現できない。
汽車の中という想定は、動く時間の共有を仮想できる設定である。
悲しめるという副詞は、情感を現すが画の中に暗さはあるが必ずしも悲しみを醸し出しているとは思えない。
青年という《若い男》の分類(あるいは領域)に関する具体性の欠如は、鑑賞者を困惑させ、『汽車の中の悲しめる青年』という存在を抽象化させる。
つまり彼(『汽車の中の悲しめる青年』)の存在は、製作者は(存在する)と言い、鑑賞者はそのタイトルから覗き見るという構図になっている。
さらに製作者の本意は、否定と肯定の間を行き来する二次的な仮想空間の想定にあると確信する。青年は、迷路を走る汽車の中の(悲しめる)現象の幻影かもしれない。
写真は(www.tauschen.com)より
『汽車の中の悲しめる青年』
削進を鑑賞する場合、作品とタイトルは通常、密接な関係があるという前提で作品に臨む。
だから作品の中に『汽車の中の悲しめる青年』を探し、無理にもそうであろう部分に協調する。
作品は人体(人間/性別不能)の連鎖あるいは人体の分割であり、人体というにはその質感は肉感を伴わず、紙もしくは板のように見える。もちろん見えると言うに過ぎない。
頭部と思われる位置が俯く姿勢に合致しているため、悲しめる青年の雰囲気に抵触する。即ち形態は否が応でも何らかの様相を呈してしまう。意図するとしないに関わらず。仮に俯く姿勢(線条)ではなく、反対に反る形態でも悲しめるを感じることはでき、人はそこに記号が付記してあれば、その記号の意図に副うように心理は傾くようになっている。
汽車は描かれなくとも、「汽車の中」といえば汽車の中なのであり、「汽車の中の悲しめる青年」といえば、汽車の中の悲しめる人間として受け止め、その条件を前提に作品を関連付けていく。そのように脳は学習されており他の選択があるにもかかわらず、大方は記号を信頼し納得してしまう。
作品に描かれた光景は立体的に再生しようと試みても不可能である。
平面(二次元)に描かれた光景は、通常三次元を基に描いているという思い込みがあるが、この場合、線を辿っていくと手前のものより後ろにあるものが手前に出てくるという微妙な混雑がある。
要するに復元を拒否する画と言ってもいいかもしれない。
『汽車の中の悲しめる青年』は、《詩》である。自力ではない外からの力(天命)で突き進んでいくような不安を抱えた自分自身の心情吐露のつぶやきが聞こえる。
写真は(www.taschen.com)より
音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶だの砂糖屋の丁稚なんかの寄り集りに負けてしまったらいったいわれわれの面目はどうなるんだ。
☆隠れた絡(みちすじ)には千(たくさん)の問いがある。
魂の等(平等)の譚(話)である。
字を査(調べると)、等(平等)の憶(思い)が呈(外に現れる)という質(内容)の記である。
終わりまで普く綿(細く長く続くこと)を黙している。
※金沓鍛冶はシューベルト(Schubert)
砂糖屋の丁稚はベートーベン(Beethoven)を暗示している。
ところが、いったんこういうことがあると、こんどは正しい日時にもう一度行ってみても、追いかえされてしまうのがふつうです。追いかえすのは、もうわけないことです。当人が受けとった呼出し状書類に残っている控え書きも、秘書たちにとっては、かならずしも十分とは言えないにしても、それでも強力な防御武器なんです。
☆召集の日時を了解するように注意されるだけです。正しい日時に行って見ても受け付けない規則です。この愚策には小舟の苦情があり、当人が手にした関係者の召集や書きとめた記録は秘書たちにとっては常に手遅れなのです、が強い防御の武器になります。